「うん。あのとき歌が聞えてきて。どこからかお母さんの歌が聞えてきて」
探偵水瀬名雪
すべてがジャムになる
the perfect mother
#7 「Free」
(自由へ)
聴こえたのは母の歌。
覚えているのは母の瞳。
あの時も、そして今も……。
――名雪。
母の声が聴こえる。
――これを。
母の手から、銀色のナイフが手渡される。
――さぁ、名雪。そのナイフで……。
手に力が篭る。
ナイフがきらりと光る。
切っ先が冷たく輝く。
刃先が、喉元に、向けられて――。
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
名雪は、祐一のその声で現実に引き戻された。
一瞬ぼうっとしたあと、すぐさま辺りを確認する。
まず目に飛び込んだのは、自分が手にしているナイフ。次に、鼻歌を歌っている神谷冬美。そして、彼女の背後にあるぶ厚い透明な壁と、そこに生まれつつある不思議な円。
「な……に……?」
名雪の目は円に釘付けになった。
壁に幾つもの円が発生し、それが急速に膨らんでゆく。
「違う……。あれは、できてるんじゃなくて、消えている……」
名雪の視線の先で、たくさんの円が生まれ出ずる――否、円形にものがなくなってゆく。その虚空の円は、他の円と重なり合い、やがて大きな球体空間となった。
虚無の球はどんどん膨れ上がり、壁を消し去るだけでは飽き足らず、天井や部屋の両壁面をも削り始める。
その際に、塵や欠片が生じることはない。
すべてがきれいさっぱり消えてゆく。
「あれが、祐一の能力よ」
目の前の女性――神谷冬美がいった。
「能力? 消すことが?」
「そう。あれこそが、私の求める能力、『けす』よ」
「けす……」
「祐一は、すべてを『けす』ことができるの。有象無象の区別なく、どんなものでも無に返すことができるわ。祐一の前では、私たちの『ちから』も消えてしまう」
「あなたの、ちから?」
「名雪は今経験したでしょ」
冬美は一度名雪に微笑んでから、祐一の方へと歩み寄った。
祐一の周囲には、いまだ無が生まれている――。
「祐一」
冬美が祐一の名を呼んだ。
「いい加減、自分の力を制御なさい。このままではあなた、名雪まで消してしまうわよ」
子供を叱る母のような冬美の口調。
しかし、祐一に変化はない。むしろ、消えるスピードが少し早まったぐらいだ。
「名雪――」
冬美が名雪を呼んだ。
「あなた、祐一を呼んでやって」
「私が?」
「あの子、パニックのあまり前後不覚になってるのよ。私が呼んだぐらいじゃ正気に戻らないわ。だから、名雪が祐一を呼んであげて」
冬美が名雪の背中を押した。名雪はそのまま祐一の前まで歩み出る。
祐一は、見えない何かに怯えるかのように両手を振り回していた。
「祐一……、何に怯えてるの……」
名雪は心配そうに祐一を見つめる。
そのとき、一瞬だけ祐一の心が名雪に見えた。
祐一は、七年前と同じように、名雪を助けようと、母に向かって、力を――。
『 キ エ ロ … … ! 』
「祐一っ!」
名雪は叫んだ。
「大丈夫! 私は大丈夫だから!」
力の限り声をはりあげる。
「だから、ダメだよっ! 自分のお母さんを消そうとしちゃっ!」
名雪の声が響き渡る。その声が、祐一の心にゆっくりと入り込んでゆく。
「な、ゆ、き……」
祐一の動きが止まった。
「祐一っ!」
名雪が祐一の胸に飛び込む。そしてそのまま祐一に抱きついた。
「なゆき……」
祐一が正気に戻る。
その一部始終を見届けてから、冬美は二人の前に立った。
「やっぱり、祐一にとって、一番大切なのは名雪なのね」
冬美が名雪に顔を向ける。その視線を祐一が身体で遮った。
「母さん、いや、神谷冬美……」
祐一が冬美を睨みつける。
「祐一、そんな恐い顔をしないで」
「何故だ。何故名雪にあんなことをさせようとする」
「あなたの力を引き出させるためよ。だけど、祐一には、それだけじゃダメみたいね」
「7年前も同じことをしようとしたなっ!」
「あら、思いだしたの?」
「おかげさまでな。二度もあんなものを見せられたんだ。思い出さない方がどうかしている」
「それもそうね。確かに、7年前も同じようなことをしたわ。失敗したけどね。まだ幼かったからかしら、あの時祐一は私の望むように力を使ってくれなかったの。あなたの力は集約することなく、逆に広範囲に拡散したわ」
「俺の力が拡散した?」
「そうよ。『子供たち』の記憶がないのは、祐一が消してしまったから。あの時、名雪を守ろうとした祐一は、それに関連する事項をすべて『けそう』としたの。その結果、あの場にいた者たちの記憶は穴だらけになってしまったわ。特に、祐一と関係の深かった『子供たち』の記憶はほとんどが消されてしまったのよ」
「そうだ、思い出した。あの時俺は、俺たちの力がなければこんなことは起きないと、そう思ったんだ。力がなければ、あんな場所にいる必要もないし、力がなくなれば、母さんが優しいもとの母さんに戻ると、そう思ったから。だから俺は、俺たちの力に関する記憶をすべて『けそう』とした。『こんな力、なくなってしまえっ!』って。結局、力はなくなってないし、おまけに、消せたのは記憶だけで、記録は残ってしまったみたいだがな」
「あの時、私を消せば良かったのよ。その方がはやかったわ」
「馬鹿野郎! 母親にそんなことができるか」
「やはりあなたはヒトではないのね」
「どういう意味だ?」
「意味なんかないわ。ただの感想だから」
冬美はため息をつく。
「やっぱり、他の子も使うしかないわね……」
「使う――だと? まだ何かやる気なのか?」
「私の目的はまだ達成されてないわ。祐一が協力してくれないのなら、そうなるように『あやつる』しかないでしょ。それには、他の子が必要なのよ」
「ふざけるなっ! 俺たちは道具なんかじゃないっ!」
「生きるには、使役し搾取することが必要だわ。そこに有機無機の区別はないの」
「そんなもん、俺は認めないぞっ!」
「だからあなたは人間なのよ。ヒトにもなれず、かといって生物のままでもない。確固たる信念の持てないあやふやな存在だわ」
冬美はそう言い放つと、その部屋の出口だった方向へ歩き出した。
「待てっ! どこへ行くっ!」
祐一がその背中にどなりづける。
「外よ」
冬美が短く答える。
「行かせるかよっ!」
祐一は冬美を追おうとする。その袖を誰かがつかんだ。
「えっ? なんで……」
名雪の驚きの声。
祐一が振り返ると、名雪が祐一の服を両手でぎゅっとつかんでいた。
「な、名雪……」
「どうして、わたし。身体が、勝手に……」
名雪の意思とは裏腹に、名雪の両手は懇親の力で祐一を引き止める。
「教えといてあげるわ――」
冬美が振り返らずにいった。
「私の能力は『あやつる』。すべてを思い通りに操ってゆくのが私の力。それに対抗できるのは、『けす』能力の祐一だけ。けれど、人間である祐一には、人間を消すことはできない。だから私は、周りの人間を操ることによって、間接的にあなたを操ることができるの」
「俺は、釈迦の手のひらの上の孫悟空ってわけかっ!? おまえはそれで、神にでもなるつもりかっ!?」
「私は釈迦ではないし、神でもないわ。それに、そんなものになろうとも思わない。私が目指すものはただ一つ。それは、完全――」
「かんぜん?」
「祐一、また会いに来るわ――」
そういって神谷冬美は祐一と名雪の前から姿を消した。
* * *
四季研究所副所長、榎木哲は目を疑った。
なぜなら、外に出られるはずのない人物が目の前にいるからだ。
囲いは完全のはずだった。だから、7年の間、神を閉じ込めておけたのに。しかし今、彼女は外に出て自分の目の前に立っていた。
「どうやって……」
榎木には、それだけいうのが精一杯だった。
「あなたには関係のないことだわ。いえ、もしかしたら関係があるかもしれないわね。とりあえず、あなたがどこまで知ってるか、それによるわ」
冬美がにこりと微笑む。
榎木の背筋に寒気がはしる。
「あなた、私の能力を知っていて?」
冬美が訊いた。
「能力? なんのことだ?」
予想外の質問に榎木は首をひねる。
「やっぱり知らされてなかったのね。まぁ、テイシンもわたしの能力を詳しくは知らないみたいだけど。これも、春樹や秋子のおかげかしらね」
「いったい何をいっているんだ?」
「そうね。とりあえず、私の能力を教えてあげる」
冬美の瞳が輝いた。
とたん、榎木の身体の自由が冬美に奪われる。
「か……、からだ……」
「これが私の能力よ」
「くっ……。な、何をしたっ!」
「本当に知らないみたいね」
「何故だ。何故動けない……」
「幾つか質問をするわ。それに答えて」
「質問? 何故そんなものに答えなければならない」
「これは命令よ。さからうと――」
冬美が指をくるんと動かす。
すると、榎木の右肘が関節と逆に反り出した。
「ぐぉぉぉぉぉっ!」
痛みのあまりうなり声をあげる榎木。
「このまま折ることもできるわ」
「わかった。答える。何でも答えるっ!」
榎木がそういうと、腕はもとの位置に戻った。
榎木はしびれた腕をさすろうとする。しかし、身体は相変わらず自分の意思では動かない。
「単刀直入に訊くわ。あなた、クレイジー・サンの精製方法は知ってる?」
「知らない」
「テイシンからも知らされてない?」
「テイシン学会からは精製方法の発見だけを命じられた。渡された資料は『女神の林檎』に関するもの。それを参考にして、四季研ではクレイジー・サンの精製方法を模索している」
「クレイジー・サンが何かは知ってる?」
「あれは強力な砂糖蒸気エンジンの核じゃないのか?」
「エンジンの核――ねぇ。ふふっ。あの時テイシンが行った情報操作がこんなふうに働くとはね。秋子の行為も無駄じゃなかったわ」
「情報操作?」
榎木は眉をしかめる。
「次の質問よ。カノン計画は知ってる?」
「そんな計画は知らない」
「kanon Childrenは?」
「知らない。何かの暗号か?」
「第五世代は?」
「なんだそれは? さっきからお前は何の話をしているんだ?」
「あなた、本当に何も知らないみたいね。無知の人間に用はないわ。だから、放っておいてあげる」
「俺が無知だと?」
「そうよ。クレイジー・サンがどんなもので、どのように使われるのかも知らないで研究しているんだから。あなた、まだ、可愛そうな子供を増やす気?」
「子供? どうして子供が出てくる?」
「これ以上あなたと話しても時間の無駄だわ」
そういって冬美は榎木に背中を向けた。
「そのうち体は動くようになるわよ。それじゃあね」
冬美が歩きはじめる。
「待てっ! おいっ!」
榎木は唯一自由になる声を張り上げる。
しかし、冬美は振り返ることなく榎木の視界から消えた。
* * *
「お母さん」
四季研の建物を出たところで声をかけられた。
振り返ると、そこには一弥が立っていた。
「一弥。今日は良くやってくれたわね」
「お母さんのためだから」
一弥があははーっと笑う。
「それじゃ、行きましょうか」
「ねぇ、お母さん。このままでいいの?」
「何が――かしら」
「四季研だよ。ここ、クレイジー・サンを作ろうとしてたんでしょ。それに、四季研は、お母さんたちが創立した研究所だって……」
「ここには何の未練もないわ。それに、クレイジー・サンなんて、普通の人間には作れないものなの。あれの精製方法を知っているのは四人だけ。一人は私。一人は人形。一人はもうこの世にいない……。最後の一人は間違っても作ろうなんて思わないわね」
「祐一さんと名雪さんは?」
「放っておいていいわ」
「いいの?」
「二人には、また会いに来るから」
そういって冬美は歩き出した。
一弥は慌ててその後を追う。
後には何も残らない。
そこにはただ、四季研の白い建物だけが佇んでいた――。
(続く)
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