第十二章 「前夜」



「空が暗いな……」
 北川潤が窓の外を見ながら言った。
「空が暗いね……」
 水瀬名雪が少し寂しそうに呟いた。
「空が暗いなぁ」
 相沢祐一は笑いながら酒を一杯飲み干した。


 凍京都護府神陀区御崎町にある木造二階建ての小さなアパートの一室、いわずと知れた祐一の部屋に三人は集まっていた。
 部屋には相変わらず至るところにガラクタが積み上げられていた。そのゴミ山をうまく壁際に追いやって作り上げたスペースに、北川と名雪は腰を下ろしている。祐一はいつものように、窓際で真下を流れる神陀川を見下ろすように座っていた。
 三人の真ん中には北川の持ってきた酒が一瓶置かれており、各々は手酌でその酒を味わっていた。


「月がないと、こんなにも暗いものなんだなぁ」
 北川がコップに酒を注ぎながら言った。
「まだ完全にないわけじゃないぞ。見ろ。空に細いのが浮かんでいるだろうが」
 祐一が窓の外を指差す。そこには確かに糸のように細い月がふわりと浮かんでいた。
「あんなのがあるだけでも、少しは明るいんだぞ」
 祐一は楽しそうに笑う。
「それはつまり、なければもっと暗いってことだろう」
「北川。おまえ、今までそんなことも知らなかったのか?」
「馬鹿にすんな。知ってたさ。ただな、ここまで暗いとは気づかなかったんだよ」
 そう呟いてから北川はぐわっと酒を飲み干した。
「なんだお前、ずいぶん神経質になってるじゃないか」
 祐一が北川のコップに酒を告ぐ。
「なりもするさ。なにせ明日は新月だ」
 北川がため息をつく。
「新月で、譲渡式典で、斬鬼だ。どうして、こう、重なるかなぁ」
「そりゃあ、力が力を呼ぶからだ」
「は? なんだ、そりゃ?」
「蓋が開くってことさ」
「相沢。今日のおまえは、いつにもましてわけがわからん」
「そんなことはない。いつも通りさ」
 祐一は笑いながら酒を口に含む。
「それより、いいのか北川。明日は大変なんだろ。なのに、こんなところで酒を食らっていて」
「決戦は明日の夜だから、今日はゆっくりと休んでおけだと」
 だから俺はここにいるんだ、と北川は笑う。ここは飲み屋や喫茶店じゃないぞ、と祐一が悪態をつく。
「それにしても、北川。おまえのことだから、徹夜して備えるのかと思ったぞ」
「そんな馬鹿なことはせんよ。今からずっと気を張ってて、それで一番肝心なときに消耗してるようじゃ話にならん。休めるときに休んで、きっちり体力を回復しておく。それが仕事を上手くこなす秘訣さ」
 北川は一度酒で喉を湿らせてから、名雪の方へ顔を向けた。
「で、まぁ、俺は今日は休んでていいんだが。水瀬、おまえは大丈夫なのか?」
「え〜、わたし?」
 名雪が間延びした声で答える。どうやら少々酒が回っているらしい。
「わたしも、今日は、お休みなんだよ」
「そうなのか? いや、白道課の方がうちより急がしそうだったからさ」
「確かに、今日のお昼ごろまではバタバタしてたけど、それももう終わったんだよ。ほとんど全部お母さんがまとめてくれて、あとは役割通り動くだけなんだよ。わたしたちはただ形式に則った式典を行うだけだから、当日は堅苦しいことはあっても、大変なことはないんだよ」
「その堅苦しいってのが一番大変だと思うんだがなぁ」
 北川の呟きに祐一も同意する。
「何が楽しゅうて式典なんてものを開くんだかなぁ」
 北川はため息をつく。
「あれはな、外部にきっちりとモノの形を示す為だ。形式ばった式典をいかにも大儀そうにやれば、周りの人間も、ああ、重要なことなんだなってことがわかるだろ。そのためのもんなのさ」
 祐一が酒を呷る。
「へ〜、そうなんだ〜。祐一、物知り〜」
 名雪がちびりと酒を舐める。
「要するに、形そのものが重要ってことか」
 北川が祐一に尋ねる。
「最近気付いたんだがな、北川。この形ってのが人間には結構重要みたいなんだ。人間、物事を判断するときは大抵外見から入る。どんなに立派な内面を持っていても、外見が悪いと評価すらしてもらえないことが多い。だから皆、まず初めに外見を整えるんだ。それは個人だろうと集団だろうと変わらないのさ。おまけにな、人間、一度外見を信じると内面までそうだと信じる傾向がある。誰だって内側まで詳しく調べるのはめんどくさい。だから皆、外見を見て内面まで判断しようとする。外見が良ければ中身もまぁ良いだろうと、そうなってくるわけだ。だからな、立派な外見を表示してやれば、相手は勝手に中身も立派だと思ってくれるわけさ。格式ばった儀式はそのためのもんさ」
「なるほど――ね」
 北川が妙に納得する。
「ところで、相沢。明日なんだが、暇か?」
「暇だ」
 即答する祐一。
「そうか。なら、仕事を一つ引き受けてくれないか?」
「沢渡真琴に関することか?」
「相変わらず察しがいいな……。お前の言うとおり、真琴さんについての話だ。明日の式典中、真琴さんの警備をしてくれないか。虎王隊は対斬鬼の作戦があって、白道課は式典があるだろ。そのせいで、真琴さんを一日中ガードすることができる、実力のある人物がいなくてな――」
「あ、それ。わたしも祐一に頼もうと思ってた」
 北川の隣で名雪が言った。
「祐一のことをお母さんに話したら、手伝ってくれるよう頼んで来てくれって、そう言われたの。理由も、北川君と同じこと言ってたよ」
 名雪の母からの頼み――それはつまり、白道神術課総長からの依頼とういうことになる。
「で、どうなんだ、相沢?」
 北川の問いに、祐一は気軽に「いいぞ」と答えた。
「ほんとか、相沢」
「ありがと、祐一」
 北川と名雪の顔がぱぁっと明るくなる。
「もともと、頼まれなくても行くつもりだったしな」
「そうなのか? そうだよな。やっぱり真琴さんのことが気になるよな。相沢にも人の心があったか」
「まぁ、そんなところだな」
 祐一はにやりと笑いながら酒を一杯飲み干した。



 帰り道。
 神陀駅までの暗い道のりを北川と名雪は歩いていた。
 最近、凍京の夜は酷く静かだ。それとゆうのも、斬鬼の出現のせいで人々が夜の外出を控えているからである。
 等間隔に並んだガス灯が歩く者のいない道を律儀に照らしている。
 ガス灯の揺らめきにあわせて、建物の黒い影がゆらゆらと揺れる。
 それはまるで、生きている闇が光の中に這い出ようとしているようにも見える。
 いずれその闇が大きく膨れ上がり、この凍京の都を飲み込んでしまうような、そんな幻影を北川は見たような気がした。
「ねぇ、北川君……」
 ふいに名雪が北川に声をかけた。
「なんだ、水瀬?」
 歩を緩めずに返事をする。
「今日の祐一、いつもとどこか違くなかった?」
「そうだな……。相沢のやつ、やけにハイだった気がする」
「うん、そうなんだよ。祐一、すごく活き活きしてたんだよ」
「アイツ、新月になると元気になるタイプか? 香里みたいに」
「北川君。わたし、なんか、怖いんだよ……」
「どうした、水瀬。急に」
「なんかね、祐一がどこかに行っちゃうような気がするの……」
「相沢がねぇ……」
 突然祐一がいなくなる。
 それは北川もよく感じることであった。どこか飄々としている祐一には、ある日さっと消えてしまうような、そんな気配があるのだ。
 思えば、祐一に会ったのもある日突然だった。
「あのさ、祐一に初めて会ったときのことなんだけどさ……」
「あ、俺も今その時のことを考えていた」
「あの頃は、京皇一味が都を騒がしてたよね」
「そうだ。それで虎王隊から俺が、白道課からは水瀬が派遣されて。あの時、結構やばかったよな。水瀬が不具不動の呪をかけられてしまって、特捜隊も半数が幻術にやられちまって。相沢が術を解除してくれなければやばかったよなぁ」
「うん。祐一が助けてくれなかったら、わたしどうなってたかわからない。だから、とっても祐一には感謝しているの。でも……」
「でも?」
「どうしてあの時祐一はあの場所にいたんだろう」
「あいつのことだ、夜の散歩でも楽しんでたんだろ」
「あの頃は、京皇一味が跋扈してたから夜に出歩く人なんていなかったよ」
「相沢の場合は特別だろう」
「それはそうかもしれないけど……。わたしね、あの時祐一は何かを探してたんじゃないかって思うの」
「何かって、何だ?」
「それはわからないよ。けどね、祐一はまだそれを探してるような気がするの」
「そのわからない何かをか?」
「うん。それでね、きっとその何かがもうすぐ見つかりそうなんだよ。それで祐一はやけに機嫌がいいんじゃないかなって思うの」
「何か――ね」
 北川は祐一の探し物を考えてみる。しかし、何も思い浮かぶ物はなかった。そもそも、普段から何を考えているのかよくわからない祐一の探し物など思いつくわけがない。
「わからんなぁ」
 北川は天を仰ぐ。
「見当もつかん」
「今のはわたしが勝手に想像した話だから、そんなに真剣に考え込まなくても……」
「けど、水瀬の勘はよく当たるからなぁ」
「そんなことないよ」
「いや、ある。実際、水瀬の勘がきっかけで事件が解決したことが何回かあったからな」
「そうなの?」
「そうだ」
 北川は視線を名雪に向ける。
「水瀬がそう思うのなら、それはきっと合ってることなんだろな。相沢はこの都で何かを探しているんだ。定職に付かずにぶらぶらしてるのも、そこらへんが関係しているのかもしれん」
 北川の言葉を聴いた名雪は少し顔を俯けた。
(もし、わたしの勘が正しかったら……)
 名雪は最近胸を掠める予感に思いを巡らす。
(祐一は、探し物を見つけ出したら、どこかに行っちゃう……)
 虫の知らせか第六感か、とにかくそんな気がしてならないのだ。
「どうした、水瀬?」
 北川に声をかけられてはっとする。
「何でもないよ。明日、晴れるといいね」
「何で突然明日の話なんだよ。しかも、晴れるといいねって、そんな遠足じゃないんだから。しかし――」
 北川は再び空を見上げる。
 細い細い月が暗闇に揺れている。
「天気ぐらいはいいに越したことはないよな」
 北川の言葉に名雪も頷く。
 江渡の森譲渡式典前夜。
 凍京の街は静かに夜の闇に沈んでいた。


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