「そうです。7年前の事件です。あれは終わりではなかったんです。あの事件のあとも、私たちは全員お母さんの手の上から出てはいなかったんですよ」




探偵水瀬名雪
すべてがジャムになる
the perfect mother
#2 「Friend」
(友との会話、友からの手紙、友は未だ来ず)



 窓の外は少し蒸し暑そうだった。
 朝降っていた雨のせいだろう。いつもとは違った不快感が部屋の中に満ちている。
 通りを歩く人は、みなどこかだるそうだった。朝が涼しかっただけに、今頭上で輝いている太陽がうらめしい。しかしその太陽の輝きも、8月のそれと比べれば、だいぶ穏やかにはなっていた。
 「今日も暑くなりそうだなぁ」
 そういって北川潤は窓から身をひっこめた。
 「まだ9月だからな」
 部屋の真ん中で、だらしなく椅子に座っていた相沢祐一が答える。
 「だけど、もう少しすりゃぁ秋だ。もうちょっと涼しくたっていいんじゃないか?」
 「朝晩はだいぶ涼しくなったろ」
 「まぁ、そうだな。暑くて寝苦しいってのはなくなった」
 そういって北川は、部屋の中の空いている椅子に適当に腰を下ろした。
 スウィート・シティ警察署の刑事課(と祐一が勝手に呼称している部屋)は蒸し暑かった。外よりは少しはマシであるが、あくまで少しである。
 この部屋にはクーラーがなかった。帝都政府が予算を出してくれないのだ。だから、涼をとる手段は、熱風を送り続けてくる扇風機か、ときおり窓から吹き付けてくる風のいずれかしかなかった。
 「そういえば、水瀬はどうしたんだ?」
 窓側に椅子ごと移動した北川が訊いた。
 「名雪か?寝てるんじゃないか?」祐一が、止まりがちな扇風機を蹴飛ばしながら答える。「ほら、今日朝、雨降ってて涼しかったろ。だから、熟睡してると思う」
 「ああ、なるほどね。水瀬らしいや」
 北川がそういって笑った。
 「それで相沢、どうするんだ?水瀬が起きるのを待つのか?」
 北川がちらりと時計を見る。時刻は10時を少し過ぎたところだ。
 「いや、それを待ってたら、下手したら日が暮れかねん。先にはじめちまおう」
 「そうだな」
 北川と祐一は、いまだ警察署にやって来ない名雪を放っておいて、自分たちだけで話をはじめることに決めた。
 「どっちにしろ、今日のことについては、名雪からはあまり情報がないと思うし……」
 祐一が、いまだ眠りこけているであろう名雪の顔を想像する。
 「天下の名探偵、水瀬名雪でもダメか」
 北川が少しおどけていう。
 「あいつはなぁ、直感型なんだ。資料とか集めんのは苦手なんだよ」
 「それって、勘で探偵やってるってことか?」
 「おそろしいことに、そうだ」
 北川が、「本当におそろしい」と呟いた。
 「で、北川。とりあえず聞かせてくれよ。おまえが調べてきた『神』についてな」
 祐一の表情が真剣なものへと変わった。
 神。
 この帝都のすべてを操っていると思われる人物。
 その知識はあらゆるものに通じていて、どんなことにも道を示してくれるらしい。
 そしてその人物は、祐一と名雪が追っている人物と同一ではないのかと、祐一は思っていた。
 二人が追っている人物。すなわち、お母さん。
 最近祐一たちの周辺で起きた事件すべてに裏で関わっている人物。
 どうやらお母さんは、祐一を使って良からぬ何かを実行する計画を企てているらしい。もっとも、その計画がどんなものなのかは、祐一たちにはわかっていないのだが。
 「神についてな、俺も結構調べてみたんだ」北川がシャツの前をパタパタと扇ぎながらいった。「いろんなつてを使って、調べてみたんだが――」
 「で、どうだったんだ?」
 祐一が先を急かす。
 「奴は、どうやら実在する」
 北川はすぱっと言い切った。
 「そう――なのか?」
 「ああ。実際いたんだ。知り合いの中で、神に会ったって奴が」
 「本当か!?」
 「本当だ。プライバシーの問題があるから誰なのかはちょっと言えんが、現に奴は、神の言葉を聞いたことによって事業に成功している」
 「そいつはどこで神にあったんだ?」
 「それがな、聞いて驚け。なんと、四季研究所だと」
 「四季研!?」祐一が大声で叫んだ。「例のあの7年前の事件の四季研か!?」
 「そうだ」
 祐一の言葉に、北川が神妙な顔で頷いた。
 7年前に四季研究所で起きた事件。
 祐一たちが調べたところによると、事件の内容は、四季研の職員一人がテロを起こし、研究所に籠城したこととなっている。犯人は単独犯で、研究所で密かに化学兵器を開発していたことが発覚したため、その化学兵器を持って籠城したらしい。未曾有の大事件として帝都警察が全勢力を動員して、四季研を完全包囲し、精鋭部隊を編成して一斉突入したが、たった一人の科学者の前に、警官隊は全滅してしまった(といっても死んだわけではない)。しかし、警官隊が突入している最中、民間の探偵が犯人の隙をついて研究所に進入し、なんと犯人を逮捕したのだ。かくして事件は解決し、犯人は裁判にかけられ終身刑となったのである。ちなみに犯人の名前は公開されていない。理由は、もし犯人に共犯者がいる場合、名前を公開することによって彼らを刺激するおそれがあるからだとされている。また、そのとき犯人を逮捕した探偵も、名前も告げずにその場所から去っていったと記録されている。
 「7年前の事件か。やな事件だよな。あの事件のせいで、警察の人気がなくなったみたいだし……。それに……」
 そこまでいって、祐一はため息をついた。
 ここスウィート・シティでは警察の人気が全くなく、代わりに探偵の人気が非常に高い。祐一はそれを常々不思議に思っていたのだが、この事件のことを調べたとき、ようやくその理由がわかった。
 7年前の事件で、犯人に全滅させられたことにより警察の威信は地に落ち、逆に犯人を捕まえることのできた探偵は英雄になったのだ。
 だから今帝都には、探偵は腐るほどいるが、警察はたった二人しかいなかった。
 だが、祐一がため息をついたのはそれだけが理由ではなかった。
 7年前の事件は、どうやら祐一にも深く関わっているらしいのだ。
 祐一には7年前までしか記憶がなかった。それよりも前がどうしても思い出せない。祐一だけではない、名雪もそうである。
 そしてどうやらその記憶がないことには、その7年前の事件が関係しているらしいということが最近になってわかった。
 8月の終わりに会った、昔祐一と一緒だったという少女がそう教えてくれた。
 「私たちはみんな、あの場所にいた」
 その少女――川澄舞は、祐一にそういった。あの場所とは、つまり四季研究所のことである。そしてそのあと舞は、「そしてあの事件の日、全てが消えた」ともいった。
 つまり、自分の記憶はその事件ときに消えたのだと、祐一はそう思う。
 その因縁深い場所、四季研究所が思わぬ方面から出てきた。
 祐一は頭の中で、四季研究所のこととお母さんのこと、そして神のことをなんとか組み立てようとした。
 手近にあった団扇を片手に取り、扇ぎながら脳みその中で三つのことをぐるぐると組み替えてみる。そうやってしばらく考えてから、「ちょっと待てよ……」と小さな声で呟いた。
 「なぁ、北川。その神は四季研にいるのか?」
 「ああ。なんでも四季研には、出口のない部屋っていう秘密の部屋があって、そこに神はいるらしいんだ」
 「舞の話によるとな、お母さんは昔四季研にいたそうだ。そこで7年前の事件を起こした。だから、もしお母さんと神が同一人物だったら――」
 「7年前の事件を起こしたのも神ってことになるな。ん?あれ、そういえば、7年前の事件の犯人は、捕まって終身刑になったはずだよなぁ」
 「そうなんだ。もし事件の犯人がお母さんなら、そもそも俺の周囲で暗躍しているお母さんは、今頃刑務所の中にいるはずなんだ。四季研になんかいるはずがない。けど、もし本当に、四季研にいる神がお母さんなのだとしたら」
 「それって、7年前の犯人は、実は捕まってないってことか?」
 「もしくは、四季研が匿っているんじゃないか。この街では7年前の事件はタブー扱いになっている。特に、四季研関係者は事件に触れようともしない。これって怪しすぎるじゃないか」
 「どうしてそんなことするんだ?」
 「それは、お母さんが今神であることと関係があるかもしれない」
 「神?」
 「神は、どんなことにも答えてくれるんだろ?」
 「ああ、そうだ。いろんな方面に訊き込み調査をしてみたんだが、神の言葉を聞いたって奴は結構いてな。そいつらの話だと、今まで何も指示してくれなかったことはないし、与えてくれた予知は100%的中しているらしい」
 「その予言と予知こそが必要だったんだ。7年前の事件の犯人はお母さんだった。けど、お母さんは類まれなる頭脳と知識の持ち主だ。その才能を刑務所なんかに埋もれさせておくのは惜しい。だから――」
 「だから、捕まえたことにして、四季研が匿ったっていうのか?」
 「ありえる話だろ」
 「そんなこと、政府が許すか?」
 「許すだろ。実際、都を動かしているのは神なんだ。指針を示してくれる存在をわざわざ刑務所にぶち込んだりはしないだろ」
 「うーん……」
 北川が腕組をして考え込んだ。
 室内が蒸しているせいで、額に汗が湧く。
 「けどそれって幽閉じゃないか」北川がぽつりといった。
 「俺もそう思う」祐一が相槌をうつ。
 「なら、どうやっておまえらにちょっかいを出してるんだ?そんな状態じゃぁ、手紙だって出せないだろうに……」
 「そこがわからん。誰か内通者でもいるんじゃないかとは思うのだが……」
 今度は祐一が腕を組む。
 「やっぱ、一度四季研を調べに行きたいなぁ」
 祐一がそう洩らしたのを聞いて、北川が祐一に向かって警告するようにいった。
 「あそこは手強いぞ」
 「そうなのか?」
 「四季研は砂糖蒸気エンジンを作ってるんだが、自社の秘密主義がすごいんだ。他の企業だとある程度は見せてくれるが、あそこはダメ。全然入れてくれない」
 「俺は警察だぜ」
 「そりゃぁ、確かにおまえは警察だが、何ていって入るつもりだ?まさか、いきなり神に会わせろっていったって、とりあってくれないだろう。用がなけりゃ、警察だって探偵だって入れてはくれないよ」
 「北川、おまえの力でなんとかならないのか?」
 「ダメだ。俺だって最新のSマシーン用エンジンとか見たいから何度も足を運んだが、その度に断られて……」
 「いや、表からじゃなくて、裏からだ。なんとか神に直接会えないかね……」
 「裏からか。できないことはないと思うが、予約待ちがすごいらしい。金を払えばなんとかなるかもしれないが、相手は俺より金や権力をふんだんに持ってる連中だからなぁ……。まぁ、3年後ぐらいなら、なんとか……」
 「3年も待ってられねーよ」
 祐一は大げさに手を横に広げたあと、椅子の上でだらんと体を伸ばした。

 『コンコン』
 誰かが部屋の扉を叩いた。
 名雪かな、と思って祐一は扉の方を見る。
 「祐一さん、入りますよ」
 そういって部屋の中に入ってきた人物は名雪ではなかった。名雪の母にして、ここスウィート・シティ警察の署長、水瀬秋子である。
 「秋子さん」
 秋子の姿を確認してすぐに祐一が居住まいを正した。
 「おじゃましてます」
 窓際から北川が挨拶をする。
 「いらっしゃい、北川さん」
 秋子が北川に会釈した。
 「それで祐一さん、ちょっといいですか?」
 秋子が祐一の傍らに立った。
 「何か用ですか?」
 祐一が秋子に尋ねる。
 「実はですねぇ、こんなものが届いたのですよ」
 そういって秋子が手に持っていたものを祐一に渡した。
 それは一枚のカードだった。表にワープロで文字が打ってある。
 受け取った祐一は、すばやくカードの文字に目をやった。
 「こりゃ、妙だなぁ」
 一通り読み終えたあと、祐一は手の中でカードをくるくるとまわし始めた。
 「とりあえず、渡して起きます。どうするか決まったら、報告しに来てください」
 そういって秋子は部屋から出て行った。
 「どうしたんだ?」
 北川が祐一の横まで歩いてくる。
 「どうしたもこうしたも、見ろよ」
 祐一が北川にカードを渡した。北川がワープロの文字を目で追う。
 カードにはこう書かれていた。

  『本日、9月10日、四季研究所に隠してあるクレイジー・サンを盗むよ。

                               怪盗うぐぅ』

 「怪盗うぐぅだと」
 北川がひきつった声をあげた。
 五ヶ月前の雇ったメイドが怪盗だった事件を思い出したのだ。
 「どうした?北川」
 「なんでもない」
 「そうか」
 「それにしても、怪盗うぐぅねぇ。こりゃぁ、懐かしいや」
 「確かに懐かしいが、これはちょっと妙だ」
 「妙?そういえば、さっきもお前、妙だっていってなかったか?」
 「いった」
 「どこかおかしいところでもあるのか?」
 「ああ。たくさんある」
 祐一が北川のカードを指差す。
 「まずな、うぐぅは予告状を仕事をする場所に送るんだ。この場合、四季研にだな。警察署に送ってくるようなことはまずない」
 祐一の指摘に北川はなるほどと頷いた。そういえば、自分の家に怪盗うぐぅが現れたときも、予告状は直接家に届いた。
 「それにな、文章も変なんだ。まず、あいつはいつも手書きだ。それなのに、これはワープロで打ってある」
 「確かにそうだが、ワープロを買ったのかもしれないぞ」
 「まぁ、そういうこともあり得る。けど、そのことを抜きにしても変だ」
 「どこが?」
 「あいつは、盗みに入る時間が夜の8時って決まってるんだ。しかも、ご丁寧に毎回予告状に時刻が書いてある」
 「これには書いてないな」
 「あと盗むもの。目的物をこんなにはっきりと書いたことはない。あいつはいつも、もっと意味不明な書き方をしてくる」
 祐一にいわれて北川は思い出した。前に自分の家に予告状が来たときも、解釈を間違えて酷い目にあったことを。
 「すると、これはいったい何なんだ?」
 北川が祐一にカードを返す。
 「わからん。偽うぐぅかもしれない」
 祐一がカードをじっと見つめた。
 「あんなののニセモノなんているかね?」
 北川が祐一に尋ねる。
 「もしかしたら本物かもしれない。けど、そんなのはどっちでもかまわん」祐一がピッとカードを北川の前につきつけた。「とにかく、これは使える」
 「使える?何に?」
 「幸か不幸か、この予告状で盗みに入ると予告しているのは、四季研だ」
 「あっ!」
 北川が声をあげた。
 「わかったか、北川。これがあれば、犯人逮捕という名目で堂々と四季研の中に入れるんだ」
 「探偵か警備会社を雇うから警察はいいっていわれたらどうするんだ?」
 「そこら辺は多少強引にいくさ。それに文面を見ろ、今日押し入るって書いてある。今から慌てて探偵呼んだって、すぐには来てくれないだろ。そうなりゃ警察の出番だ」
 祐一は立ち上がってから、くぅっと体を伸ばした。
 「行くのか?」
 北川が訊いた。
 「今から行く」
 祐一が出かける準備をしながら答えた。
 「水瀬はどうするんだ?」
 「そうだな。北川、名雪の家に行って、このことを伝えておいてくれ」
 「おまえは行かないのか?」
 「時間が惜しい。今日一日しかないんだ。その間になるべく四季研の中を探りたい」
 「そうか、わかった。水瀬にはちゃんと伝えておくよ」
 「頼むぜ、北川」
 「まかせろ、相沢」
 祐一と北川はお互いの手をぱぁんと合わせた。
 祐一は信頼できる友に後のことを任せ、はやる気持ちを抑えながら、四季研へと足を向けた。


 (続く)

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