「―――月の光を見るたびに思い出すことがあるの。広大な、閉じ込められた空間。永遠にやむことのない機械音。そして、お母さんの面影」
探偵水瀬名雪
すべてがジャムになる
the perfect mother
#3 「Floor」
(人工物で構築された人工的な内部空間)
今は夏の終わり。
太陽の輝きは真夏のそれに比べればだいぶ弱くなり、ときおり吹く風には心地よい清涼感が含まれている。
木立の影は長くなり、哀愁を漂わした声でセミが歌う。空は日に日に高くなり、たまにトンボが風に流されて飛んでゆく。
秋の訪れを全身で感じられる、今はそんな季節。
しかし、水瀬名雪が今いる場所は違った。
白一色で塗られた窓のない廊下。一定の明るさに保たれた天井の光。暑くもなく寒くもない室温。清潔で無表情な、人工的で均斉的な空間。
そこには季節というものは存在しかった。
コンクリートで囲まれた、自然というものが全く感じられないフロア。ここには植木鉢一つ存在しない。
今この空間に存在する生物は二つ。
名雪と、名雪を案内して歩く男。
二人は真っ直ぐに伸びる廊下を進んでゆく。その間、誰とすれ違うこともない。
「ここです――」
名雪の前を歩いていた男が足を止めて振り返った。名雪も男に習ってその場に立ち止まる。男の後ろは廊下の突き当たりで、そこには白い一枚の扉があった。
「この部屋で、謁見することができます」
男が名雪に説明した。男はここの社員である。物腰と年齢から推測するに、かなり高い地位にいるものと思われる。
「先ほども申し上げた通り、録音、撮影は禁止です。あと荷物の方は、こちらで預からせていただきますが、特に何かを持っているというわけではなさそうですね」
男の言葉に名雪が頷く。実際、名雪の持ち物といえば、手に持っている紫色の封筒だけだった。
「それでは、そちらの封筒を持って中の方へお入り下さい」
男は扉の前から体を引き、片手で部屋に入るよう名雪に促した。
名雪は一度深呼吸をする。
それから目の前の白い扉をゆっくりと押し開いた。
部屋の中も廊下同様真っ白だった。入ってすぐのところに丸椅子が一脚置かれている。
部屋の広さは六畳ほどに見えた。部屋の真ん中には透明なガラスのような壁があり、それが部屋を二つに隔てている。
仕切りの向こう側にもこちら側と同じように扉と椅子があり、椅子には誰かが反対向きに座っていた。
「座ったら?」
女の声が聞こえた。たぶん、目の前で背中を向けている人物の声である。しかし、声はもっと違うところから聴こえた気がした。
「どうしたの?座らないの?」
再び声がした。名雪は今度は声の指示に従う。
「汗をかいてるわね。そうね、外は暑いんだったわ」
名雪は声の出所を探ろうと室内をぐるりと見回し、壁に埋め込まれているスピーカーを発見した。どうやら声はそのスピーカーから聞こえてくるらしい。
「ずいぶん気温と湿度が高いわね。これじゃあ、屋外で仕事をする人は大変ね。だけど、あなたが汗をかいてるのは、それだけが原因じゃないわね。緊張――かしら?」
ガラスの向こうの人物は相変わらず背中を向けている。
「あの……」
名雪が女に声をかけた。
「あなたが私に手紙をくれたのですか?」
「そうよ」女は即答する。
「私をここに呼ぶために?」名雪が訊いた。
「あなたと話をするためよ、名雪」
自分の名前を呼ばれ、名雪ははっとする。
女は言葉を続けた。
「それにね、本当にあなたが私の知っている通りの名雪なのかどうかを確かめるために、あなたを呼んだの」
「え?確かめる?」名雪が首を傾げる。
「本当は無意味な行為なんだけど、せずにはいられないのよ。人の性ね」
女がふふっと笑った。
「私を知っているのですか?」
名雪が女に尋ねた。
「知ってるわ。ずっとあなたのことを見てきたから」
「ずっと?」
「直接的に私の目を使って見るのは7年ぶりだけどね」
「7年ぶり……。じゃあ、あなたは私の7年前を知ってるの?」
「もちろん7年前のことも、それよりもっと前のことも知ってるわ。ところで名雪、あなたは本当に7年前のことを覚えてないの?」
「え?」
急に問われて名雪は困惑する。
「覚えてないみたいね」
女の言葉に名雪は小さく頷いた。
「別に、そのことについて名雪が責任を感じることはないわ。あなたに記憶がないのはあなたのせいではないのだから。それだけ祐一の力が強かったってことよ。あの子、あのとき必死に抵抗したから……」
「祐一?」
不意にでてきた祐一の名に名雪が驚く。
「祐一のことも知ってるの?」
名雪が女に訊く。
「Kanon Childrenって聞いたことある?」
女が突然質問した。
「え?」
名雪はあっけにとられる。
「繰り返される子供たち。転生する子供たちって呼んでた人もいたけど、転生だと意味が違ってしまうわ。繰り返されるの方が正しいの」
「え?え?」
何の前触れもなくはじまった話に名雪は戸惑う。
「子供たちは通奏低音にそって奏でられるの。同じメロディーを重ねながら、そこに新たなメロディーを追加して、反復しながら曲は進んでいく。そうやって繰り返してゆくうちに、足りない部分は補完され、より完璧になってゆくと、そう考えた人が昔いたのよ。そして、その人は考えるだけでは飽き足らず、そのことを実行に移したわ。賛同する人がたくさんいたから、その人の計画はけっこう大規模なものとなったの。みんながお金と資源を出し合って、完全なる存在というものを求めた。それが本当はどういうものなのかを考えることもなくね」
「何の話をしているんですか……」
「あなたたちの話よ」
「私……たち?」
名雪は息をのむ。
「この建物の中の居心地はどう?」
女はまた唐突に話題を変えた。
いきなりの変化に名雪はうまく対応できない。
「あなたは外から来たのでしょ。外と比べてこの中はどう?」
「なか……」
名雪は室内を見回す。
「外は暑かったから、中の方がすごしやすいけど……」
「最高の環境だと、ここを設計した人はいってたわ」
「だけど、ちょっと息苦しい感じがする」
「そうよね。やっぱりそう思うわよね。それでこそ、人間なのよ」
女は名雪の返答に満足そうに頷く。
「人間には刺激が必要だわ。どんなものでもそうだけど、刺激がなければ、それは慢性化してしまうの。その方が良いと思ってる人がたくさんいるけど、この世には、変化のないことほど退屈なことはないわ。そのことを、ここを設計した人はわからなかったのね。私がここで一番不愉快に感じることは、風を感じることができないことなの。私は人でいる間は人としての感性を持っていたいのだけど、ここではそれもできないわ。いくら外の様子を知ることができても、やっぱり知っているのと感じるのでは違う。私は風を感じたいのよ」
「風がないのは窓がないからですか?」
名雪は外の廊下の風景を思い浮かべながら訊いた。
「窓どころか、扉もないわ。私が今いる場所は、出口のない部屋なの。今あなたと私の間にある透明な壁。あなたはこれをガラスの壁か何かだと思ったかもしれないけれど、これは水族館なんかで使われている、厚さ2メートルの強化プラスチック壁よ。大砲を撃ち込んでも壊すことはできないわ。それぐらい堅固に私がいるところは隔離されているの。この中にいる限り、外部環境と物理的に接触することはほぼ不可能ね」
「そこに閉じ込められているということですか?」
「そう。私は私の意に反してこの場所にいるの。もう7年になるわね。私は7年間外の空気を吸ってないの」
「ひどい……」名雪は直にそう思う。
「ひどい話よ。だから私はここから出ることにしたわ。そのためにあなたを呼んだの」
「私を?」
「7年は長かったわ。特にこの中は、不愉快なことはたくさんあるけど面白いことは何もないから尚更よ。だけど、あなたたちが成長するには、それぐらいの時間が必要だったの。本当、外部の刺激というのは効果的ね。研究所ではなかなか結果が出なかったのに、外に出たあなたたちは、みんな力が使えるようになっているわ」
「力……」
そのとき名雪の脳裏に様々な映像が浮かびあがってきた。
あゆの持つ謎の力。
「みる」力を持っていた栞と、「みせる」力を持っていた香里。
炎を操る真琴。歌を操る佐祐理。
そして、自分と祐一のまわりで起きる、不思議な現象――。
思い浮かんだイメージが女の言葉と結びつく。
7年。
失われた記憶。
力。
みんなの能力。
あなたたち。
出会った私たち――。
「あなたが今いった、あなたたちって……」
名雪が尋ねる。
「あなたたち10人のことよ」
女が即答する。
「10人……。それって、私や祐一や香里や……」
「ここ半年ぐらいの間に出会ったでしょ?どうだった?久しぶりにあった子供たちは」
「私たちはやっぱり知り合いだったの?」
「そうよ。生まれたときからずっと一緒だったのよ」
「同じ場所にいたの?」
「同じ研究所内にいたわ」
「7年前に別れた?」
「放たれた、といった方がいいわね」
「私たちは……」
名雪は不意に思いついた質問をした。
「私たちは、誰……?」
名雪は女の背中を見つめる。
「あなたたちは子供たち。繰り返される子供たち。Kanon Children 第四世代」
女は歌うようにいった。
「あなたは誰?どうしてそんなことを知ってるの?あなたはいったい誰なの?」
名雪の鼓動が速くなる。
「私も子供。繰り返された子供。Kanon Children 第三世代」
「カノン、チルドレン……」
「そして私は母。あなたたち10人の母――」
透明な壁の向こうで女がと立ち上がった。
そして、ゆっくりと名雪の方へと振り返る。
「名雪。綺麗になったわね……」
そういって女は微笑んだ。
名雪は女の顔を凝視した。
「お母さん……」
そう呟いて、名雪も椅子から腰をあげた。
(続く)
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