「お母さんは、7年前に何かをした。そして最近、またその何かを始めようとしている。そしてそのために、再び私たちに干渉し始めている――」




探偵水瀬名雪
すべてがジャムになる
the perfect mother
#5 「Fence」
(囲い、過故意、過去遺)



 「お母さん……」
名雪がいった。
 透明な壁の向こうで、母と名乗った女が微笑んだ。その顔は、名雪の母――水瀬秋子と瓜二つであった。
 「違う……」名雪は頭を振った。
 「何が違うの?名雪」女が笑う。
 「私には、ちゃんとお母さんがいる……。お母さんがいるもんっ!」名雪はきっと女を睨む。
 「そう。それは正しいわ」
 女はゆっくりと室内を歩き始める。名雪はそれを目で追う。
 「あなたは誰なの?」
 名雪が女にもう一度質問する。
 「あなたたちの母。さっきもいったわ」
 「あなたの名前は?」名雪はさらに問う。
 「名前?そういえば、あなたは私の名前を知らないのね。ダメよ、母親の名前を知らなくちゃ」
 女がクスリと笑う。
 「神谷冬美。それが、私の名前よ」
 女はさらりといった。
 「かみや、ふゆみ――」
 どこかで聞いた事がある名前だと名雪は思った。
 「どう?いい名前でしょう。私はこの名前を気に入ってるわ。だってこれは、私たちがはじめて自分で創ったものだからね。私たちはね、はじめは名前がなかったの。数字で呼ばれてたわ。秋子が7で、私がf――」
 「え、秋子……?」
 女――冬美の口から、聴き慣れた名前が発せられる。
 ――どうして、この人がお母さんの名前を。
 名雪は母親そっくりの冬美の顔をまじまじと見る。
 「子供のころはそれでも良かったわ。まだ、名前というものを知らなかったからね。けど、ある日、戯れに名前を付けて呼び合ってみたのよ。言いだしたのは秋子。どうして秋子がそんなことを思いついたのかはわからないけど、とにかく試しにやってみたのよ。ちょうど、外の季節が秋と冬の境目だったから、秋子と冬美にしようって。それで一日お互いに名前で呼びあってみて、そのままそれが私たちの名前になったの――」
 「秋子って、やっぱりお母さんの……」
 名雪の鼓動が高まる。
 「第二世代は――」
 冬美がまた突然に話題を変えた。
 名雪は慌てて頭を切り替えようとする。
 「――そこそこの成果をあげていた。因子の重複による拒否反応や補完過剰による容器損壊もうまく抑えることができたし、組み合わせによる致死遺伝の問題もクリアできた。その結果、常人よりも優れた能力を持った人間を誕生させることができたわ。実験者はその新たな人間を見てさぞ満足したでしょうね。けれども、満足という状態は決して持続するものではないの。物事がうまくいってるときは尚更だわ。だから実験者はすぐに新しい欲望に駆られたの」
 「欲望――」
 直感的に、それは何かよくないことだと、名雪は思った。
 「人に人を重ねていけば、より完全なる人ができる。けど、それはあくまで優れた人であって、人との目に見える相違はそこにはない。それよりも、人に更なる力を受け継がせ、人とは違うヒトを創った方が、自分も周囲もそのもののできがわかり易いわ。新たなる力を得て誕生するヒトは、人を超えた一種神格的なものになるだろうし、その神格的存在を生み出した自分もまた、神的要素を備えることができると、そんな不思議な事を思いついてしまった人がいたのよ。こんなくだらないことを考えつく時点で、その人はだいぶ人から外れてるよう思えるけど、違う見方をすれば、そういうものを考えつくその人こそ、まさに人ということができるのよねぇ。ほんと、人の定義って難しいわ」
 冬美は、人について考えるのは心底楽しいといったふうに笑い、あなたはどう思うと名雪に訊いた。
 「だお……、わ、私はそんなこと考えたこともなかったから……」
 名雪は顔の前で両手を振る。
 「あら、それは勿体無いわ。人について考えるということは、どうしてコーヒーに砂糖を入れる人間がいるのかについて思考を巡らせるのと同じぐらいに興味のあることよ。名雪も今度、人と生物の違いを考えてみるといいわ」
 名雪は冬美の提案に生返事をする。
 「さて、人の定義は置いといて、私たちの話をしなくてはね。どうして私と秋子が知り合いなのか。それに、どうして私と秋子が同じ顔をしているのか。名雪はさっきからそれが気になってるみたいだし」
 冬美に微笑みかけられた名雪は、心の中がすべて読まれているような気がして、体をぶるっと震わせた。
 「今いったとおり、Kanon Childrenの方向性は少し変わってしまったの。計画は、完全な人よりも、人を超えた何かを目指し始めたわけ。けど、目指しているものがどういうものかを考えてないって点では、初めから何も変わってないともいえるわね。とにかく、第三世代を創るにあたっては、今までとは少し違う方法がとられたの。前の世代同士を掛け合わせるところまでは一緒だけど、そこに因子を注入するという新たな課程が加わったのよ。そのとき、幾つか問題が生じたわ。一番の問題は、不確定要素が増えたということね。因子の注入が個体にどのような変化をもたらすのかは、やってみなければわからなかったし、固体が因子に耐えられるかどうかも当時は計算することができなかったの。それに、注入する因子に複数の候補があったにも関わらず、そんなにたくさんの固体が用意できるわけでもなかったのよ。そこで、因子の影響によって固体の毀損、滅失が起きたときの保険のためと、予備を含めた複数の固体を保持するために、第三世代では複製という手段がとられたのよ」
 冬美は学校の授業でもしているかのように淡々と話を続けていた。
 それを聞いている名雪の心には、先程から冬美の言葉が重くのしかかっていた。
 冬美は、「創る」という言葉を使っている。それは、新しい生命を誕生させるという意味である。
 しかも、その生命体とは紛れもなく「人」のことであった。
 ――人を創る。
 一種異様な言葉である。
 馴染みがない故か、名雪にはその言葉が酷く恐ろしく聴こえた。
 そしてさらに、今最後に冬美が口にした「複製」という言葉――。
 創ったり複製したり、人とは、そんな物の様なものであったのだろうか。
 名雪は軽い眩暈を覚える。
 目の前が、ねじれてゆくような錯覚に襲われる。
 「まず、はじめに――」
 遠くなりつつある名雪の意識の中に、神谷冬美の声が響いてきた。
 「――第二世代同士の理想的配合により、種を創る」
 名雪はなんとか意識を踏みとどめ、再び冬美の声に聞き入る。
 「そして次に、その種を複製し、そこに様々な因子を埋め込んだの。そうやって生み出されたのが、Kanon Children第三世代――」
 つまり私たち、と冬美は自分を指差した。
 「複製の数は15。因子の数は7。全員が、生まれながらにして何らかの能力を備えていたわ。だけどね、やっぱりうまくはいかなかったの。虚弱体質、異常成長、精神耗弱、容器損壊……。生命活動に支障をきたす多種多様な症状が体を蝕み、一人、また一人と第三世代は消えていったの。結局、5歳まで生き残れたのは4人しかいなかったわ。そして、今存在しているのはたった二人だけ……」
 「その二人が、あなたとお母さん……」
 「そうよ、名雪」
 そういって一度瞬きをした冬美の瞳は、どこか悲しそうに名雪には見えた。



 それからしばらくの間、冬美は何もしゃべらなかった。
 名雪も黙って冬美に向き合って座っている。
 名雪は壁に囲われている冬美の姿を見ながら、なぜ冬美が自分にあんな話をしたのかを考えてみた。
 ――自分の思い出話を私に聞かせるため?
 それは違うとすぐに否定する。
 目の前にいる女性は、そんなことをするような人ではない。
 他の理由があるはずだ。
 ――自分が私の母であるということを示すため?
 それも違うだろう。今の冬美の話では、その点については何もわからない。わかったことといえば、自分の母親と冬美が特殊な状況で生まれたということだけであった。
 ――お母さん……。
 名雪は冬美が述べたことを思い出す。
 それはとても衝撃的なことであり、同時に、よくわからないことでもあった。
 あまりにも非現実的過ぎるのだ。それはすでに理解の範疇を超えている。
 そもそも、本当に冬美がいったようなことが行われていたのだろうか。
 人を創る計画。
 人を超えたものを創る計画……。
 そんな空想的な出来事が。
 ――けど。
 名雪は思い出す。
 自分たちの周りにいた、人とは違う力を持った友人たちを。
 そして、おそらく同じように力を持っているであろう最愛の人を。
 また、近頃名雪も、自分にもそのような力があるのではないかと感じ始めていた。最近の事件で、そう思えるようなことが起きたのだ。
 目の前にいる女性は、名雪たちのことを「Kanon Children 第四世代」だといった。
 それはつまり、第三世代の後に創られたヒトということであろう。
 それならば、冬美のいってることが全て正しいのならば、自分たちが持っている力についてもある程度は納得がゆく。納得はゆくのだが……。
 ――だったら、私たちは何なの?
 名雪は考える。
 自分たちも創られたものなのだろうか?
 自分たちはヒトなのだろうか?
 自分たちも複製なのだろうか?
 自分たちはみな同じものなのだろうか?
 私はみんなと同じ?
 私は香里と同じ?栞ちゃんと同じ?あゆちゃんと同じ?真琴ちゃんと同じ?美汐ちゃんと同じ?佐祐理さんと同じ?舞さんと同じ?
 私は祐一と同じ?
 私は……?
 「違うっ!」
 それは違うような気がした。
 冬美のいってたことを否定するのではない。冬美の話は第三世代の話だった。だからおそらく、第四世代は違うのだ。
 では、私たちは何なのか――?
 名雪は透明な壁の向こうにいる、自称母に答えを求める。
 冬美は沈黙を続けている。
 ただ黙って、彫像のように椅子に座り続けている。
 話してくれない。
 教えてくれない。
 冬美は、自分の話したいことしか聞かせてくれない。昔からそうだったような気がする。
 名雪の中に苛立ちが募る。
 心がぐるぐるとかき乱されてゆく。
 己の中に、凶暴な己が現れる。
 自分がとても希薄になってゆくような気がする。
 目の前には、名雪を観察するような冬美の姿。
 その冬美の様子を見たとき、冬美が名雪に話を聞かせたのは、名雪の内面を不安定にするためだと、名雪はそう直感的に理解した。
 しかし、何故冬美がそんなことをするのかは、名雪にはわからないことだった。



 「そろそろ祐一が来る頃ね」
 ふいに冬美が声を出した。
 「祐一、祐一がここに来るの?」
 名雪が冬美の言葉に素早く反応する。
 「来るわよ。そうなるようにしておいたから」
 冬美がにっこりと笑う。
 「本当に祐一が来るの?」
 「そうよ。祐一が来てくれればね、私はここから出られるようになるのよ。だから私は祐一も呼んだの」
 「え?祐一があなたをそこから出すの?どうして?どうやって?」
 「理由は名雪がここに来るから。方法は名雪はもう知っているはずよ」
 「にゅ……?」
 名雪は頭を抱える。
 どうしてそこに自分が出てくるのだろうか?
 「名雪。あなたは7年前の記憶はないのよね」
 「うん……」
 「それじゃあ、名雪にとって、今までで一番怖かったことって何?」
 また冬美の質問がとんだ。
 「怖かったこと……?」
 名雪は冬美のこの行動にある程度慣れてきていたので、すぐに首をひねって質問されたことを考えだした。
 ――怖かったこと、怖かったこと、怖かった……。
 いろいろな思い出が脳裏に蘇る。
 自宅のベットから寝ぼけて落ちたこと。
 秋子に無理やりジャムを食べさせられそうになったこと。
 台所でゴキブリに追いかけられたこと……。
 「にゅっ!」
 不意に、頭の奥底に痺れがはしった。
 今思い出せる記憶よりもっと深いところに、何かひっかかるものがある。けど、それを取り出そうとすると、鈍い痛みが頭にはしる。
 「名雪。あなたは覚えているはずよ。なぜなら、祐一はあなたには力を向けてはいないはずだから。他の子達とは違って、あなたの記憶は消されてはいない。あなたは祐一の力を借りただけ。記憶を沈めたのは名雪自身。だから、あの日に何があったのかを、あなたは覚えているはずだわ」
 冬美の声が聞こえる。
 名雪の頭に痛みがはしる。
 ――ダメだ。思い出してはいけない。
 そう自分に言い聞かせても、自分の頭の中を抑えることができない。
 「無理に抑えない方がいいわよ。あなたは今、自分の力を自分に向けてしまっているのだから。下手に力を押さえつけて、その反動で力が暴走してしまったら、あなたは二度と浮かび上がってこれないわ」
 冬美の声が名雪の頭の中に響き渡る。
 名雪は大きくかぶりを振ってから、声の主の目をきっと見つめた。
 「あっ――」
 名雪の瞳が冬美の瞳を捉えた。
 冬美の瞳も名雪の瞳を捉えていた。
 冬美の瞳は、濡れたように輝いていた。
 薄くて、青い、澄んでいるが、とても濁った光。
 光は名雪の網膜を経由して、名雪の脳に染み込んでゆく。
 自分が自分ではなくなっていく感覚。
 流れ込む意思。流れ出す過去。
 今が昔と重なる。
 ――そうだ、あのときも、こうやって、お母さんの、目を、見て……。
 落ちてゆく。どこまでも、深く。
 何も、何も考えられなくなってゆく。
 眠りにつくのとは違う、強制的な意識の遮断……。
 「おいで、名雪」
 声が聞こえた。
 それは今目の前にいる母のものか、それとも過去に聞いた母のものか。
 どちらなのかは名雪にはわからない。
 ただ、名雪は、誘われるように母の元へと歩いていった。


 (続く)


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