「祐一君。世の中には不思議な事がたくさんあるってお母さんが教えてくれたんだよ」




探偵水瀬名雪
すべてがジャムになる
the perfect mother
#6 「Face」
(直面する母、直視する瞳)



 真っ直ぐに伸びる白い廊下。
 等間隔に並ぶ白い扉。
 どこの角を曲がっても、どこの階段を登っても、視界に入ってくる景色は同じもの。
 人間味のない、それゆえに非常に人間的な、味気のない空間。
 ――今いるのは建物のどの辺だろうか?
 祐一はそんなことを考えてみる。しかし、その答えはわかるはずもなく、また、わかったところで何の意味もない。そんなことは考える前から理解できているはずだった。つまり、今行った祐一の思考は、暇潰しでしかないのである。だがそれも、一瞬でカタがついてしまっては暇潰しにもならない。
 ――どこまで行くんだ?
 前を歩く怪盗うぐぅの背中に向かって心の中で問いかけてみる。もちろん、その声がうぐぅに届くことはない。
 うぐぅは振り返ることなく先へ先へと進み、祐一はその後をただひたすらに付いて行く。
 この水先案内人は、祐一を「お母さん」のもとに連れて行くといっているのだが――。


 幾つもの廊下を進み、幾つもの角を折れ、幾つもの階段を昇り降りし、もういい加減この人工的な空間にいること自体に嫌気がさしてきたとき、先にたって歩いていた怪盗がふと足を止めた。
 「着いたよ」
 そういって怪盗うぐぅが振り返る。
 そこは長い廊下の突き当たりだった。奥に白い扉が見える。廊下には他に扉はない。
 「ここにいるのか?」
 祐一がうぐぅに聴く。
 「この扉の向こうに、お母さんがいるんだよ」
 うぐぅが片手で扉を示した。
 「どうしてそれがわかる?」
 「子供がお母さんのことを知ってるのは当たり前だよ」
 「どうして俺をお母さんに会わせる?」
 「お母さんがそれを望んでいるからだよ」
 「どうしておまえはお母さんの言う事をきく?」
 「子供として当然だよ」
 「そうか……」
 祐一がじっと怪盗うぐぅを見つめる。
 うぐぅは一瞬祐一から目を逸らす。
 「一つ、質問させろ」
 祐一がいった。
 「いいけど……、何?」
 うぐぅが少し身構える。
 「おまえは、誰だ?」
 祐一の言葉が廊下の空気をゆっくりと震わせた。


 「え……」
 うぐぅが目を見開いて祐一を見つめる。
 「おまえは、誰だ?」
 祐一がもう一度同じことを訊く。
 「わ、わたしは怪盗うぐぅだよ」
 うぐぅが慌てて答える。
 「猿芝居は止せ」
 「芝居なんかじゃないよ。わたしは……」
 「どんなに外見を似せても、人には内面というものがある。全く同じ姿をしていたって、仕草が違えば別人なんだよ。おまえのその変装は見事だが、そのせいで、逆に違うところが目立つんだ。おまえはあゆじゃない」
 祐一がうぐぅの姿をしたそいつに詰め寄る。
 「あはは。まさかばれるとは思わなかったよ」
 突然、そいつは開き直ったように笑い出した。
 「おまえ、何者だ? お母さんの関係者か?」
 祐一は眉をひそめる。
 「僕はお母さんの本当の息子だよ」
 うぐぅの姿が陽炎の様に一瞬揺らぎ、その姿が少年のものへと変わった。
 「なっ……!?」
 驚きのあまり、祐一が一歩後ずさる。
 「これが僕の能力の一片。僕は『ひかる』ことができるんだ」
 少年は張り付いたような笑顔で祐一に説明した。
 「それがお前の本当の姿か」
 「そう。本当の姿――というより、あるがままの姿かな?」
 「お母さんの息子だと?」
 「うん。お母さんにはたくさんの子供がいるけれど、本当の子供は一人しかいないんだ。それが僕。僕こそが、お母さんの本当の息子、神谷一弥だよ」
 そういって少年――、一弥は誇らしげに胸を張った。
 「たくさんの子供? 本当の息子? おまえは何をいってるんだ?」
 祐一は一弥を睨む。
 「そっか。祐一さんも他の子と一緒で、みんな忘れちゃってるんだね。だから今日、お母さんに呼ばれたんだ」
 一弥はなるほどと手を叩く。
 「呼ばれただと? 俺は、今日、自分の意思でここに来たんだ」
 「それは祐一さんがそう思ってるだけだよ。祐一さんは自分でここに来ることに決めたという。だけど、そのきっかけを作ったのはお母さんだよ。警察署に偽の予告状を出したのはお母さんなんだ。まぁ、実際に届けたのは僕だけどね。お母さんは偽の予告状を出せば祐一さんがここに来ることがはじめからわかってたんだ。なにしろお母さんは、全てのことを知っていて、どんなことでも自分の思い通りに運ぶことができるからね」
 「そんな都合のいいことができてたまるか」
 「それができるから、お母さんは『神』になるんだよ」
 「神だと……?」
 「そう。神だよ」
 一弥が片手を扉に伸ばした。
 祐一は一瞬遅れてそれに気づく。
 その隙に一弥は扉を開け、部屋の中へするりと滑り込んだ。
 扉が閉まりきる前に祐一は扉に手をかける。そしてそのまま勢いよく扉をはね開け、部屋の中へと足を踏み入れた。



 部屋の広さは六畳ぐらいであろうか。
 目の前に透明な壁がある。
 祐一は壁に向かってゆっくりと歩き出した。
 「待ってたわ、祐一」
 どこからか声が聴こえた。
 その声を聞いて、祐一は一瞬だけ動きを止めた。
 目は、壁の向こうの人物をずっと見つめている。
 壁の向こうには人間が二人いた。
 二人いるうちの一人は、秋子によく似た女性。

 祐一はゆっくりと壁に近づく。

 祐一の視線は、ずっと同じ人物に向けられていた。
 見つめているのは、秋子に似た女ではない。その隣。視線は、秋子似の女性の隣に佇んでいる女の子に向けられている。

 祐一はゆっくりと壁に近づく。

 女の子が立っている。
 壁の向こうに女の子が立っている。
 祐一のよく知っている女の子。
 ずっと昔から、ずっと一緒にいた女の子。
 かけがえのない、とても大切な女の子。
 そして、今ここにいるはずのない女の子――。

 祐一はゆっくりと壁に近づく。

 透明な壁は視覚の妨げには全くならない。
 祐一の視力も悪いわけではない。
 だから、確認するのに、こんなに近づく必要はない。
 だけど祐一は近づかずにはいられなかった。
 できる限り接近して、彼女が彼女でないことを確認したい。
 彼女がここにいるのは、自分の見間違えであると信じたい。
 しかし、やはり彼女はそこにいた。
 彼女は彼女であった。
 そんなことは部屋に入ったときからわかっていた。
 祐一が彼女を間違えるはずがなかった。
 壁の向こうには、名雪がいた。



 「そうか……」
 祐一は拳で壁を叩く。
 「さっきの、さっきの一弥とかいう奴だな。あいつが、あゆに化けたように、今度は名雪に化けたんだな」
 祐一はがんがんと壁を叩き続ける。自分に都合のいい理由を並べ、自分を欺こうとしながら。
 「違うわよ。祐一ならわかるでしょ。そこにいるのは名雪よ」
 また声が聴こえた。
 その声は、祐一に懐かしさを喚起させる。
 「おまえは……」
 祐一がゆっくりと女の方へと視線を向けた。
 そのときはじめて女の目を見た。
 そしてそこにいるのが誰かを知った。
 「やっと私を見てくれたわね」
 女がにこりと笑う。
 「か、母さん……」
 祐一の口から自然に言葉が洩れた。いってからその言葉にひどく驚く。
 「母さんだと? 俺は、今、母さんといったのか?」
 「そうよ、祐一。お母さん、嬉しかったわ」
 「何故だ? どうして俺はそんなことを?」
 「私があなたの母だから。それ以外に理由はないわ」
 「いきなり出てきて俺の母親だと? そんなことがあってたまるかっ!」
 「なら祐一はそうではないと否定できて?」
 「それはできないが……。あんたが俺の母親だと?」
 「別に理解する必要はないわ。感じてくれればいいのよ。現に祐一は、私を見て何ともいえない感情を心に抱いたでしょ。それでいいのよ」
 「母さん、なのか……」
 祐一は混乱する。
 いきなり出てきた母。
 そしてそれに懐かしさを感じる自分。
 壁の向こう側にいる名雪。
 白い無感動な部屋。
 そのどれもが、祐一の心をぐるぐるとかき回す。
 「な、なんで、そこに名雪がいるんだ」
 祐一は自分の心を乱すもの――母との会話を避けるために、女の隣に佇んでいる名雪に意識を向けた。
 名雪の様子は少しおかしかった。ぶらりとさせた両腕、力の抜けた肩、生気のない瞳。まるで、ただ立っているためだけにそこにいる。
 「なゆき……?」
 祐一がその異常に気づく。
 その途端、祐一の頭にずきりと痛みがはしった。
 「どうして名雪がそこにいるんだ?」
 祐一は片手でこめかみを押さえながら名雪を凝視する。
 今日は名雪は警察署に来るはずだった。しかし約束の時間に名雪は来なかった。けど、それはきっと、いつも通りに名雪が寝坊をしたからだ。たぶん今も、名雪は自宅のベットでけろぴーを抱えながら幸せそうに眠っているに違いない。だから、こんなところに名雪がいるはずがない。
 いるはずがないのに、どうしてそこに、名雪が……。

 ――そういえば、あのときも、お母さんの横に、いるはずのない名雪が、いた。

 「うっ!」
 また祐一の頭に痛みがはしる。
 「名雪がここにいるのは、私が呼んだからよ」
 女がいった。
 祐一は女に視線を戻す。
 女は壁の向こうにいる。そこは、自分の手の届かないところ。
 名雪も壁の向こうにいる。そこも、自分の手の届かないところ。
 「名雪はね、自分でここまで来たのよ」
 女がの声が聴こえる。
 「私がおいでっていったら、名雪はここまで歩いて来たのよ」
 ――あのときいたのは、母さんの部屋。
 「名雪は、扉も窓も壁も、全ての囲いを通れるわ」
 ――そうだ。あの部屋も、いきどまりで、真っ白で、他に何もなくって。
 「さぁ、祐一。あのとき私が何をしたのか、覚えてる?」
 ――あのとき母さんがしたこと?
 ――あのとき、俺の前で。
 ――母さんは。
 ――俺の手の届かないところで。
 ――母さんは。
 ――名雪に手渡して。
 ――母さんは。
 ――それで、名雪にっ!

 「うわぁぁぁぁぁっ!」
 祐一が叫んだ。
 ――駄目だ! 思い出してはいけない!
 思い出したら、また、あの時と同じになる。
 頭が真っ白になって。
 自分が抑えられなくなって。
 何もかもが消え――て。
 「ぐっ!」
 祐一は自分を落ち着かせようと、両手で頭を締め付ける。
 記録の奥底から、記憶が浮上してくる。
 「別に、無理に思い出さなくてもいいのよ」
 女がいった。
 「それならそれで、あのときと同じことをここで行えばいいのだから」
 女が笑う。その手には、いつのまにかナイフが握られていた。
 銀色に輝く、美しき凶器。
 そして女は、神谷冬美は、あの日と同じように、ナイフを名雪に――。

 それを目にした瞬間、祐一の意識は白く弾けた。


 (続く)


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