記憶―――
どこまでが本当で、どこからが嘘?
探偵水瀬名雪
私がここにいる理由
you and I
#6「陳述人」
「あの、私の話を聴いていただけないでしょうか?」
そう、天野がいった。
「別に、話に対する感想などを求めているわけではありません。ただ、聴いてもらえるだけでいいんです。よろしいでしょうか?」
「俺はかまわんよ。名雪と北川は?」
俺は二人の方を顧る。
二人とも、無言で首を縦に振った。
その様子を見て、天野が静かに話を始めた。
「実は、私には。いえ、私と真琴には、7年前までしか記憶がないのです。
7年前。気づいたら私は、真琴と二人で暗い森の中をさ迷っていました。どこの森かはわかりません。とにかく、その森の中の記憶が、私の一番古い記憶であり、それより前の記憶は全くないのです。
私たちは、森の中を歩きました。ひたすらに歩き続けました。そして森を抜け、なんとか街にたどり着きました。しかし、街に着いたところで、どこへ行けばいいのかわかりません。しかたなく私と真琴は、建物と建物の隙間の風のあたらなそうな場所に、二人で身を寄せ合いながら座り込んでいました。そのうち私は、だんだんと意識が遠くなっていきました。
実際、断続的に意識は途切れていたのだと思います。
日がゆっくりと沈み、辺りが次第に寒くなってゆくのを感じながら、いよいよもうだめかと思ったそのとき、私たちに一人の婦人が声をかけてきました。
「どうしたの、あなたたち。家はどこ?」
婦人はそういいました。
しかし私は、婦人の問いに何も答えることができませんでした。
なぜなら私は、自分のことを何も思い出せなかったからです。
ただ、たったひとつだけ、覚えているものがありました。
それは、名前―――天野美汐という自分の名前と、沢渡真琴という傍らの少女の名前でした。
ですが私は、本当に疲れてしまっていて、自分たちの名前も、自分に記憶がないことも、何もいうことができませんでした。
婦人は、私たちがじっと押し黙っているのを、何かを考えるような顔をして見つめていました。
私も、そんな婦人の様子をじっと見つめていました。
しばらくそのまま時が過ぎました。
その間に日はすっかり暮れてしまい、街頭にポツポツと明かりが灯りはじめました。
通りを歩いていた人々も、いつのまにかいなくなっていました。
きっとみんな、暖かい食事の待つ家へと帰っていったのでしょう。
私と真琴と婦人―――まるで世界には、その三人しか存在していないようでした。
やがて婦人が、優しい笑みを浮かべながら柔和な口調で私たちにいいました。
「もし、帰る場所がないのなら、うちにいらっしゃい」
その言葉を訊いたとき、私の中に何か暖かいものが広がりました。
何もすがるもののない私たちにとって、婦人のその言葉は、染み入るような優しさを持っていたのです。
ですから私と真琴は、婦人のお言葉に甘えることにしました。
そして重い足を引きずりながら、婦人について行きました。
婦人もふらふらになりながら歩く私たちのことを、一生懸命に励ましてくれました。
そうこうしているうちに、私たちはある孤児院へとたどり着きました。
そう、そのとき連れていってもらった場所が、今私たちがお世話になっている孤児院であり、その婦人こそが孤児院の院長先生であったのです。
それから私と真琴は、孤児院で働きながら暮らすようになりました。
孤児院での生活は、本当に幸せでした。
院長先生や孤児院のみんなはとても優しく、そこでの生活には、何も不自由はありませんでした。
しかし、そんな生活にもかかわらず、私はときどき不安になることがあったのです。
はじめは、それが何なのかよくわかりませんでした。
わかりはしませんでしたけど、漠然とした不安を確かに感じていたのです。
そしてある日、私はその不安の正体を知ることになりました。
きっかけは、一人の女の子が仕事につき、孤児院から卒園していったことでした。
その女の子はずっといってました。
「私はそのうち自立をして、お金を稼いで、お世話をしてくれた院長先生やみんなに恩返しをするんだ」と。
その子は常に、そうした目標を持っていました。
そして孤児院を手伝いながら勉強をし、ついには帝都の警備会社に就職したのです。
私たちはみんなで女の子の卒園会を開きました。別れを惜しみつつも、その子の新たな門出をお祝いしたのです。
女の子も、別れるのは辛いといって泣きました。私も、真琴も泣きました。他のみんなも泣きました。けど、女の子の目は後ろを向いてはいませんでした。ずっと前を見つめていたのです。
女の子の瞳は希望に満ちていました。自らの目標に向かって行くその姿はとても輝いて見えました。
そのとき、私は気づいたのです。
自分には、目標というものがないことに。
そう、過去を持たない私は、未来も持っていなかったのです。
ただ、普遍的に今を生きるだけ。
目標を持たない自分。それこそが、私の感じた不安の正体でした。
私はそのことに危機を覚えました。
そしてそのときから私は、目的というものを考えるようになりました。
しかし私には、過去に蓄積したものが何もなかったので、いきなり未来を想像することができませんでした。
そこで私は、まず、今自分がここにいる理由を作り上げることにしました。
自分の存在理由というものを考えるようになったのです」
自分の存在理由―――天野はそういった。
理由。
俺の存在理由。そんなものがあるのだろうか?
考えたこともなかった。
生まれてきたからには、それなりの理由があるのだろうか?
何のために生まれて、何のために生きる―――
いや、違う。
理由は与えられるものではない、見つけるものだ。
そう、生きて行くということは、理由を探すのではなく、目的を作ることだ。
現に俺は、人に与えられた理由ではなく、自分で決めた意思で警察という仕事をしている。
俺が警察になった理由は―――
「私はずっとそうやって悩んでいたのです。しかし、考えてみれば、真琴も私と同じ立場にいたのです。ですから、真琴も同じようにずっと悩んでいたのでしょうね」
天野はそういってから少し目を伏せた。
「そうか、それで真琴ちゃんは天野さんと同じよう、自分の存在理由―――今の自分ができることを探すために、孤児院を飛び出したのか」
北川がもっともらしくいった。
「おそらく真琴は、孤児院にいると、馴れ合いの中に己の危機感が埋没してしまうと思ったのでしょう。ですから、一人で―――」
「なんとなくわかるなぁ、その気持ち。俺も同じような理由で家を飛び出したからなぁ」
「北川。おまえ親父に勘当されたんじゃなかったのか?」
「うっ……。それは、数ある理由のうちの一つにすぎん……」
北川はそういって顔を背けた。
「それで天野は、その、理由というか目標を見つけることができたのか?」
俺は天野に訊いてみる。
「はい。あまり大それた物ではありませんが、とにかく、見つけることができました」
天野が、少し微笑みながらいった。
「あの、天野さん」
名雪が天野に声をかけた。
「さっき、手紙っていってたよね。それっていったい……」
名雪の問いに、天野は一度うなずいてから答えた。
「五日前、手紙が届いたんです。私宛に」
「それって別に、普通のことなんじゃ」
「他の人ならそうかもしれません。けど、私たちにとっては違います。なぜならその手紙が来るまで、私たちのことを知っている人は全くいなかったのですから」
「記憶も記録もない……」
「ええ、そうです。まさにその通りですね。それなのに、誰かが私に手紙を出したのです」
「それは、誰からの手紙?」
名雪が、珍しく早口で天野に尋ねる。
「差出人の名は、『あなたたちの母』でした」
あなたたちの母―――
その言葉を聴いた瞬間、俺の頭の中にふわっと記憶が浮かび上がった。
そう、沼の底から泡が浮きあがってくるように、ふわっと……。
『今日から、私があなたたちの母です』
記憶の泡は、すぐにはじけて消えてしまった。
「母?お母さんからの手紙だったのか?」
北川が天野に訊いた。
「わかりません。何せ私には、昔の記憶がないですから。それに、手紙の文面も妙でしたので……」
「妙?おかしいってことか。いったいどんな感じだったんだ?」
北川の質問を聴いたあと、一瞬間をおいてから、天野がゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「私がここにいる理由。
私はそれを知っている。
あなたがそこにいる理由。
あたなはそれを消されている。
私はあなたを知っている。
あなたは私を知っているはず。
なぜなら私は、あなたたち10人の母だから。
さぁ、探しに行きなさい。
どうしてあなたがここにいるのかを」
これが、手紙に書かれていた内容です―――最後に天野がそう付け加えた。
俺はポケットから手紙を取り出し、今天野の語った内容を書き写した。
どうも変な文章だな。
特に、あなたはそれを消されているっていう件が。
普通なら、知らないとか、忘れているとかだろうに……。
「今の文句、どこかで……」
「ん?どうした、北川」
「いやな、今の文句をどこかで聴いた気がしてな」
「漫画か映画の台詞じゃないのか?」
「うーん、台詞とかじゃなくって、もっとこう、メロディーっぽい……。あっ!そうかっ!」
北川がぽんと手のひらを叩く。
そして、部屋の隅の方をがさごそとはじめた。
「あった。これだ」
そういって北川が、一枚のレコードを出してくる。
「この曲の歌詞が、さっきの文句と一緒だったんだ」
北川はそういいながら、レコードを蓄音機にかけた。
蓄音機から、少しかすれたトランペットとサックスの音が響いてくる。
やがて、女の人の歌声が蓄音機から流れ始めた。
「♪私がー、ここにー、いるー理由―――」
「この歌声……。北川、歌ってるのって、さっき聴かせてくれた―――」
「そうだ。ユーリ・桜だ」
北川がレコードのジャケットを持ってくる。
「一ヶ月ぐらい前に発売されたやつだ。結構特殊な歌詞だろ。だから、その解釈が結構話題になったりしたんだ。まぁ、ユーリはそのことについて、何もコメントしてくれなかったんだがな」
蓄音機から歌声が流れてくる。
その歌詞は、さっき天野が語ったものと全く同じであった。
これは偶然の一致だろうか?それとも、何か関係があるのだろうか?
にしても……。
「相変わらず、なんというか、変な気持ちになる歌だ……」
「変な気持ち?癒されるっていえよ」
北川が不愉快そうな顔をする。
「それがな、どうもダメなんだ。これ聴いてると、癒されるどころか、少し不安になってくる……」
俺はありのままの感想を北川に述べた。
「相沢さんもですか?実は、私も……」
「北川君。私も、なんかこの曲を聴いてると……」
見ると、天野も名雪も落ち着かないような顔をしていた。
心なしか、部屋が寒くなったような気もしてくる。
「なんだなんだ?おまえら、ユーリ・桜の歌を聴いて、よりにもよって不安になるだと!?くーっ、わかってねえなぁ。聴くんじゃねぇ、感じるんだっ!」
北川が、むちゃくちゃなことをほざく。
そして、赴ろに蓄音機に手を伸ばすと、音量を一気にあげた。
「ぐはぁぁぁぁっ!」
「きゃぁっ!」
「だおぉぉぉぉぉっ!」
俺たちは思わず耳を塞ぐ。
「あ、耳を塞ぐんじゃねぇっ!」
「うるせえ!バカ!でかずぎだっ!」
この大音量。
屋敷中に響き渡ってるんじゃないか?
「ユーリー・桜の曲は、大音量で聴いたほうが癒されるんだ!」
「どあほっ!限度ってのものをちったぁ考えろ!」
俺は耳を塞ぎながら部屋の隅へと走り、蓄音機を操作して曲をストップさせた。
「あ、消しやがったな」
「消すに決まってんだろっ!」
「なんてことするんだ。これからサビに入るところで―――」
「その前に鼓膜がいかれちまうわっ!」
「あの、相沢さん、北川さん。喧嘩は―――」
『ジリリリリリリリリリッ!』
俺と北川の諍いを天野が止めようとしたそのとき、屋敷に非常ベルの音が鳴り響いた。
「ぐはっ!な、なんだ北川。この音はっ!」
「こ、これは火災警報だっ!」
「な、火事っ!」
俺は慌てて部屋中を見渡す。
別に室内はなんともなってない。
「見てっ!」
名雪が窓の外を指差しながら叫んだ。
全員が窓に取り付く。
窓の外から見える建物の二階部分。そこからもうもうと黒い煙があがっていた。
「をいっ!火事だよ!救急車!」
俺はよく北川の家に遊びにきていたので、部屋のどこに電話があるのか熟知している。
だから俺はすぐに受話器を手に取り、急いで帝都消防に電話をかけた。
呼び出し音をもどかしく聴いているとき、背後から北川の叫び声が聴こえてきた。
「まずいっ!あそこは真琴ちゃんの部屋だっ!」
(続く)
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