私には記憶がない。

 自分の過去を何も知らない。

 私には記録がない。

 誰も私の過去を知らない。

 だけど、あの人は知っていた。






探偵水瀬名雪

月の光にいざなわれ
vanishing body

#6「蒸気たなびく裏庭で」





 「香里〜!!」

 私は開きっぱなしの扉から、香里が『女神の林檎』を守っているはずの部屋へ飛び込んだ。

 けど、部屋には香里の姿はなかった。

 そして部屋にあったはずの『女神の林檎』も、どこにも見当たらなかった。

 「香里!」

 祐一と北川君も送れて部屋へ飛び込んでくる。

 「なんだ!このありさまは!」

 部屋に入ったとたん、祐一が叫び声をあげた。

 それぐらい部屋の中は荒れていた。

 まるで誰かが争ったあとみたいに――――――もしかして、香里とムーさんがっ!?

 「美坂っ!くそっ!」

 北川君が近くの椅子を蹴飛ばす。

 「おいっ!北川っ!こっちの窓がっ!」

 祐一が大声をあげる。

 その指差す先には、ガラスの割られた窓があった。

 「ここから外に出たのか?」

 北川君が窓を見ながらいう。

 「北川、この窓の外はどこだ?」

 「屋敷の裏庭だ。さっきの倉庫があった方の反対側に出る」

 「裏から逃げる気か?」

 祐一が窓から見をのり出す。

 「こっちの窓は、普通に開けてあるよ〜」

 私が隣の窓を指差す。

 「たぶん香里は、ムーさんを追いかけてこっちの窓から外に出たんだよ」

 「ちぃっ!」

 祐一が窓から外に飛び出す。

 「くそっ!78号の設定を解除しなければ良かった!」

 北川君も窓から飛び出した。

 「私も行くっ!」

 私も窓をよじ登り、裏庭へと飛び降りた。





 裏庭は蒸気で真っ白だった。

 全く見えないわけじゃないけど、遠くの方は全然見えない。

 その白い視界の中に、揺れている影が二つ。

 たぶん、あれが祐一と北川君だね。

 「また蒸気かっ!」

 祐一の声が聴こえてきた。

 「ゆ〜いち〜」

 私はとりあえず祐一だと思われる人影のもとへ行く。

 「お、名雪か。うーん、近くに来るまで姿がわからんな」

 祐一が辺りを見まわす。

 「とりあえず、裏庭がどうなってるのかを北川に聴いてみよう―――北川ぁぁぁ」

 「何だぁぁぁ?」

 「とりあえず合流しよう」

 「おう。わかったぁ」

 北川君がこっちに走ってくる。

 「相沢、水瀬。何か見つかったか?」

 「こう真っ白じゃ何もわからん。おまえの家の裏庭は、いつもこんなんなのか?」

 「馬鹿いえ!こんな真っ白な裏庭を作るか!」

 「ね〜、誰か今日の天気予報みた?もしかしたら、濃蒸気注意報が出てたかも・・・・・・」

 「出かけにチェックしてきたが、そんな予報はやってなかった。それに、いくらスウィート・シティでもこの蒸気は異常だ」

 「ってことは〜、この煙はやっぱりムーさん?」

 「たぶんそうだろ。くそっ、人の家の裏庭を蒸気だらけにしちまいやがって!」

 「うぐぅに続いてビューティー・ムーンも蒸気か。何だろな、怪盗の間で蒸気を使うのが流行っているのかな?」

 「泥棒さんにも流行ってあるの〜」

 「さあな。それより北川。裏庭がどうなってるのかを説明してくれ」

 「裏庭か?ここはな、俺の趣味で色々な植物が植えてある。ガーデニングってやつだ。お気に入りなのはパセリ。他にもセージやローズマリー、それにタイムなんかもあるぞ」

 「北川君って、ガーデニングの趣味があったんだ」

 「まあな。花なんかも植えてあるぞ。今年は向日葵をいっぱい植えたからな。夏になったら裏庭が黄色に染まるはずだ」

 「わ〜、いいな〜。ねぇ、他の花は?」

 「他か?他は―――」

 「おい!北川、名雪。そんなことはどうでもいい。俺が訊きたいのは裏庭の広さと地形だ」

 「ああ、そうか。広さはだいたい小学校の校庭ぐらいかな?1500メートルトラックを作ろうと思えば作れるぐらいの広さはあるぞ」

 「私、走るの好きだから〜、作って欲しいな〜」

 「地形は、こっから見て左手の方に小さな池がある。裏庭の大部分は花畑、右奥の方には温室もあるな。あと、ところどころに置石や彫像が置いてある」

 「それって、どれくらいの大きさだ?」

 「ものによるが、石は一抱えぐらい。彫像は1mぐらいの高さかな?」

 「そうか。そうなると、この視界の悪い中じゃ結構な障害物になるな。ビューティー・ムーンはそれを避けて走っていったのか・・・・・・。それにしても―――」

 祐一が首をめぐらす。

 「―――そんなに広いのか、この裏庭。ここを探すのは厄介だな――――――ん?」

 祐一が蒸気の中の一点を見つめた。

 「なんだありゃ?」

 祐一がそっちに向かって歩いて行く。

 そして、なにか光るものを持ち帰って来た。

 「これが落ちてたんだが、おまえの家のものか?」

 祐一が、鉛筆みたいな形をした光る物を私達に見せる。

 「いや、こんなものはうちにはない」

 「名雪、北川。これなんだかわかるか?」

 「これはペンライトってやつだな。砂糖電池の小型化が成功してどーのこーのってやつ」

 「ムーさんの落し物かな?」

 「そうかもしれない。一応、保管しておこう」

 祐一がペンライトをポケットにいれた。

 「さて、とにかく香里とビューティー・ムーンを探さないとな」

 「そうだ!美坂だ。みさかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 北川君が大声で叫んだ。

 そのとき、

 「その声、北川君?」

 遠くの方から女の人の声が聴こえてきた。

 この声は―――、

 「香里〜?」

 「名雪?名雪もいるの?待って、今そっちに行くから―――」

 霞の中にもう一つ影が現れる。

 私達もそちらへと向かった。

 「あ、香里〜」

 ある程度近づいたところで、やっと影が香里だとわかった。

 「香里、あの部屋のありさまはいったい?」

 「相沢君、ビューティー・ムーンが現れたのよ」

 「やっぱりそうか」

 「ビューティー・ムーンはいきなり部屋に飛び込んできたの。そのとき、私が部屋に残っているのを見てすごく驚いていたわ。それで、そのあと急に襲いかかってきて・・・・・・」

 「なっ!襲い掛かってきた!?だ、大丈夫だったのか、美坂!」

 「北川君、私は大丈夫よ。けど『女神の林檎』を盗られてしまったわ・・・・・・」

 香里が悔しそうにいう。

 それを聴いて、北川君が胸を撫で下ろした。

 「良かった、美坂が無事でなによりだ」

 「良くないわ、『女神の林檎』を盗られたのよ」

 「まぁ、それはそうだが・・・・・・、美坂の無事には変えられないよ」

 「・・・・・・ありがと」

 香里が少しうつむいた。

 「それで香里。ビューティー・ムーンはそのあとどうしたんだ?」

 「『女神の林檎』を奪ったあと、ビューティー・ムーンは窓を割って外に飛び出したわ。私はすぐに隣の窓から出て追いかけたんだけど、庭の様子がこれでしょ―――」

 香里があたりを見回す。

 「―――見失ってしまったの」

 残念そうに香里が呟いた。





 「とにかく、手分けしてビューティー・ムーンを探しましょう」

 香里がそういったとき、また笑い声が聞こえてきた。

 「ふっふっふー」

 「今の声、ムーさん!?」

 「こっちだ!」

 みんなが声のする方へと走る。

 「うにゅっ!」

 何か足元に・・・・・・

 どたっ

 「いたいよ〜」

 何かにつまづいたよ〜。

 「大丈夫か?名雪?」

 祐一が私を起こしてくれた。

 うにゅ〜ん。

 「名雪、石につまづいたのか?」

 「そうみたい」

 「水瀬、さっきいった通り、庭にはいろいろ置いてあるから気をつけろよ」

 「わかったよ〜、北川君」

 もう転ばないように気をつけなきゃね。

 けど、転べば祐一が助け起こしてくれるかな?

 う〜みゅ・・・・・・。

 「何つっ立ってんだよ、名雪。行くぞ!」

 「あ、待ってよ祐一〜」

 しばらく真っ白な裏庭の中を走ると、いきなり目の前に高い塀が現れた。

 「この塀は、たぶん敷地の一番奥のだ」

 北川君が塀をこんこんと叩く。

 北川君の家の塀は、ものすごく高かった。

 見たところ3mはあるんじゃないかな。

 やっぱ、お金持ちは違うね〜。

 「ふっふっふー」

 「あ、また笑い声」

 「塀の上の方から聴こえるわよ!」

 香里の言葉に、みんなが塀を見あげる。

 蒸気は、塀の上の方ではだいぶ薄くなっていた。

 だから、塀の上の様子は下からでも良く見えた。

 高い高い塀の上。

 そこに、ムーさんがこちらを見下ろしながら立っていた。

 そしてその手には、しっかりと『女神の林檎』が握られていた。

 「くそっ!オカマ野朗!そいつを返せ!」

 祐一が懐から拳銃を取り出す。

 そして照準をムーさんに合わせた。

 「ふっふっふー、バイバイ」

 ムーさんがさっきみたいに手を振る。

 そして、塀の裏側へと姿を消した。

 「え?飛び降りた!?」

 私は思わず驚きの声をあげる。

 だってこの塀、高さ3mはあるんだよ。

 「博物館のときみたいに上か?」

 祐一が空を見上げる。

 私も天を仰ぐ。

 けど、見えてくるのは満天の星空だけ。

 「北川、この塀の向こうはどうなってるんだ?」

 祐一が北川君に訊く。

 「雑木林だ。林を突っ切れば、蒸鉄線の篠ノ井駅の方へ抜けられる」

 「逃げられたわね・・・・・・」

 香里がぼそっと呟いた。

 「ああ・・・・・・くそっ!」

 祐一が拳で壁を叩く。

 「さて、相沢。どうする?」

 「・・・・・・手遅れだと思うが、とりあえず塀の向こう側へ行ってみよう。何か手掛りがあるかもしれないしな。北川、どっからかこの塀の裏側に行けないか?」

 「何箇所か裏口がある。ここから一番近いのは、こっちだ」

 北川君が、蒸気の中を歩き出す。

 私達も北川君のあとに従った。





 北川君のお屋敷の裏手。

 うっそうと繁る雑木林。

 林の中は草ぼうぼうだったけど、塀沿いの草は綺麗に刈られ、道が出来ていた。

 「草が刈ってあるな・・・・・・。北川、ここの手入れはこまめにしているのか?」

 「こんな場所使うことないからな。手入れをしたことは全くないぞ」

 「なのに、草が刈ってあるってことは・・・・・・」

 「ビューティー・ムーンがあらかじめ道を作っておいたってことかしら」

 「そうだ、香里。走りやすいように、やつがあらかじめ草を刈っておいたんだ」

 うにゅ〜。

 なんかみんなで探偵みたいな会話をしてるよ〜。

 かっこい〜な〜。

 「とりあえず、この道を進んでみよう」

 祐一が塀沿いに延びる道を進み始めた。

 私達もあとに続く。

 しばらく黙々と道を進む。

 ある程度歩いたところで、祐一が立ち止まった。

 「なぁ、北川」

 「なんだ?相沢」

 「お前の家の塀の裏には、櫓が建ててあるのか?」

 そういって祐一が前方を指差す。

 そこには、小さな櫓が一つ建っていた。

 高さは、塀より少し低いぐらい。

 「あんなもんははじめてみるぞ」

 「とりあえず、登ってみるか」

 祐一が、櫓に備え付けてあった梯子を登る。

 「ここがてっぺんか。ここからなら塀の上にも簡単に登れるな。よっと―――」

 祐一が塀の上に登る。

 「―――ここはもしかして、さっきビューティー・ムーンが立っていた所じゃないか?」

 祐一が塀の上から私達を見下した。

 「ヤツは、ここに立って俺たちを見下ろして―――」

 祐一がそこから櫓の上に飛び降りる。

 「―――そのあとここに飛び降りたんだ」

 「それでそこから梯子を使って降りて、それから今きた道を通って逃げたのか?」

 北川君が、塀の脇の道を眺める。

 うーにゅ、そうかな〜?

 もしムーさんがこの道を使うと・・・・・・

 「北川君。この道を使うと、この道に気付いて追いかけきた私達と鉢合わせになるかもしれないよ。そんな道をムーさんが使うかな?」

 「確かに。あまり安全な逃げ道じゃないな・・・・・・」

 北川君があごに手をやる。

 「北川、名雪―――」

 祐一が櫓の上から私達に声をかけた。

 「―――林の方へも道が続いている。ここからだとよく見えるんだ」

 「林の方?」

 私と北川君は、櫓の根元まで歩いて行く。

 道は、櫓のところまでは壁沿いに真っ直ぐで、櫓の下からは90度林の方へ折れ曲がっていた。

 「ほんとだ〜、道が林の奥の方にも続いてる〜。じゃあムーさんは、どこかの裏口からこの道に出て、ここまで走ってきて櫓に登ったあと、私達に笑いかけて、それから櫓を降りて、今度は林の方へと逃げていったっんだね〜」

 なんか妙にややこしい気がするよ〜。

 「どうしてムーさんはわざわざこんなところに櫓を建てて、さらに逃げるときに登ったりしたんだろね〜?」

 「わからない―――」

 祐一が櫓から降りて来る。

 「―――けど、これが何か関係あるのかもしれない」

 祐一が、櫓の上から何かを持ってきた。

 「なんだ?これは」

 北川君が首を傾げる。

 「櫓の上に置いてあったんだ」

 そういって祐一が私達にみせたものは、長いロープのついたバケツだった。

(続く)



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