第一章 「相沢祐一」



 太陽が西に傾く夕暮れ時。
 北川潤は、凍京都護府、神陀(かんだ)区、御崎(みさき)町の路地裏を歩いていた。
 幾つもの角を曲がり、細く折れた薄暗い道をどこまでも進む。路地裏には、塵やら芥やら、とにかく何やら良くわからないもが散乱している。北川は、それらに足をとられないようにゆっくりゆっくりと足を進める。歩く度に懐にしのばせた護身刀がチャリチャリと鳴る。
 そうやって暫く歩いた先に目的の建物が見えてきた。
 神陀川のほとりにポツンと立っている木造二階建ての小さなアパート。このアパートを見る度に、地震が起きたら一瞬で川に崩れ落ちるのではないかと北川は思う。
 北川はアパートの二階に続く階段をするするとのぼる。そして二階に二つしかない扉の一方を軽く叩いた。
「誰だ?」
 扉の向こうから声が聞こえてくる。
「俺だ。北川だ」
「ああ、北川か」
「入るぞ」
「勝手にしろ」
 家主の許可を受けたので、北川は立て付けの悪い扉を開け中に入る。
 そこらに物が散乱する4畳半の狭い部屋。その一番奥で、男があぐらをかきながら窓から外を眺めていた。
 「どぶ川を眺めるのがそんなに楽しいかね」
 北川は苦笑しながら靴を脱いで部屋に上がりこむ。
「刀を手に魑魅魍魎と戦うよりは、なんぼかマシさ」
 窓の外を眺めていた男が振り向いた。
 男の名前は相沢祐一。
 このボロアパートに住み着いている、自称「書生」である。
「最近は妖怪と戦うのは巫女さんの仕事になっちまってさ。おかげで俺は、こうやって閑人さ」
 そう笑ってから北川は、部屋の隅の塵溜めの様な場所から座布団らしき物を引っ張り出し、その上に座りこんだ。
「閑人だったら、近頃凍京を騒がしている辻斬りでも捕まえてきたらどうだ」
「そう簡単に捕まえられるのなら苦労はしないさ。それに、あの辻斬りは妖怪の仕業だって噂もある。もしそうなら、俺達武官じゃなくて術官の仕事さ」
「妖怪相手に斬り合いをするのがもののふの仕事じゃなかったのか?」
「昔はそうだったがな。今は魑魅魍魎に対しては術師の方が格が上なんだよ。ほらこの前、住井重工で新しい単筒を開発しただろ」
「あの陰陽術と単筒を組み合わせたってやつか」
「そうだ、あれだ。あれが全国の術官に配備されてな。術師達も白兵戦ができるようになったんだ。そうしたら、もう武官の出る幕はないって言われてよ。おかげでもののふは肩身が狭いぜ」
「アホらしい。単筒で妖怪が滅ぼせるか」
「そうは言っても、そこそこの成果は上げているらしい。もう刀の時代じゃないのかもな」
 そう言って北川は懐の短刀を取り出し、眩しい目でそれを見つめた。
「それで閑になったもののふが、こんな所に何をしに来たんだ? 酒でも飲みに来たのか?」
 言いながら、祐一が塵の山の中から一升瓶を出してくる。そして、これもどこからか出したコップを二つ畳の上に無造作に置き、そこに酒をドボドボと注いだ。
「まぁ、半分は酒だ――」
 北川はコップを取り、ひと口ゴクリと酒を飲む。
「あと半分は何だ?」
 祐一もコップを取り、酒をグビリと飲む。
「もう半分は――相沢、おまえに折り入って頼みがあるんだ」
「頼み? 一介の書生でしかない俺に、凍京都護府虎王隊の北川潤副隊長が何のようだ?」
 祐一の揶揄するような言い方に、北川は少し顔を顰める。そしてコップの酒を一気に飲み干した。
 そこに祐一がすぐに酒を注ぐ。
 その酒をひと口舐めてから、北川がゆっくりと言葉を紡ぎだした
「――美坂栞を知っているか?」
「知っている。白道神術課の雪術師団長、美坂香里の妹だろ。凍京府内の術師なら誰だって知っていることだぞ。それで、その栞がどうかしたのか?」
「それがな、どうやら狐に憑かれたらしいんだ」
「術師長の妹が狐憑きか。そりゃ、笑えるな」
「馬鹿! 笑いごとじゃないぞ。それでな、相沢。お前に憑き物落しを頼みたいんだ」
「は? 何を言う。オレなんかに頼まなくても、白道方術課雪術師団長の香里お姉様に祓ってもらえばいいじゃないか」
「それがな、香里は今留守なんだ。いや香里だけじゃない。白道課の連中はほとんど凍京にいないんだよ」
「そりゃまたどうして」
「白道課の連中は、甚大(じんだい)村まで妖怪討伐に行ってる最中なんだ」
「甚大村の妖怪? ああ、塩右衛門一味か」
「そう、それだ。虎王隊も隊長と甲組、乙組が討伐中でな。おかげで凍京を警備する人員が足りなくてしょうがない」
「たかが狸退治に大層な行列だな」
「タヌキ? 塩右衛門って言ったら鬼だろ」
「ああ、そうか。そういうことになっているんだっけな。どっちにしろ、そんな大所帯で討伐に行くような連中かね?」
「今回の遠征は、倉田長官が総大将として指揮をしているんだ」
「成る程な。長官が指揮しているから絶対に成功させなくちゃあならない。おまけに長官の身の安全も守らなきゃいけない。それでどうしても大軍になるわけだ。ご苦労なこったなぁ」
「本当だよ。お偉いさんにはじっとしていて貰いたいもんだ」
「まぁ、白道の連中がいない理由はわかった。だがな、凍京には青道の連中が残っているんだろ。そいつらに頼めばいいじゃないか」
「そうなんだが――白道課としては、青道課の連中にはなるたけ知られたくないんだ」
「どうして?」
「白道課と青道課は仲が悪いんだよ。十五年前、この凍京府が開かれたばかりの頃は、術官の実権を握っていたのは青道課の方だった。だがな、この凍京近辺の妖怪討伐で手柄を立てたのは白道課の方だったろ。それで、あっと言う間に凍京の術官の実権は白道課の方が握ってしまったんだ。それをな、青道課の方が良く思ってなくてな。それでしょっちゅう青道課の連中と白道課の連中は喧嘩しているんだ」
「実際の実力から言っても白道の方が上だろ。何たって白道のトップはあの水瀬秋子だ。白道が実権を握るのは当然のことだと思うんだがなぁ」
「まぁ、そうなんだがな。だがな、青道課の方はそうは思っちゃいない。ほら、白道課は巫女集団で、青道課は坊主の集団だろ。だから青道課の連中は、白道課は女の色気で実権を握ったと思っているんだ」
「おい。本気でそう思ってるのか?」
「俺に言うなよ。青道課の連中に言ってくれ。とにかく、そういう背景があるんだよ」
「ああ、それで白道としては青道には頼めないんだな」
「そうだ。師長の妹が狐憑きにあったなんて事は、白道課にとっては『恥』でしかない。こんな事が青道課に知れたら、ヒョイっと足元を掬われちまう。おまけにこの事を世間に公表でもされたら、白道課の信用はガタ落ちだ」
「狭い一都市の組織の中でいがみ合うなんて愚かな話しだなぁ。そもそも身分や地位や権力に拘るからややこしくなる」
「言うなって。俺だって副隊長って言う身分持ちだ。結局、人間はそう言うモノに拘るのさ。みんながみんな、お前みたいに川を見ながら日がな暮らして行けるのなら、世の中もっと平和なのだろうがなぁ」
「そりゃぁ――そうだろう」
「まぁ、兎にも角にもそう言うわけなんだ。だから相沢。白でも青でもないお前に憑き物落しをやって欲しいんだよ」
「話が元に戻ったな」
「戻るも何もこれが本題だ。それでどうなんだ?」
「俺じゃなくたって民間の術師に頼めば良いだろ。腐る程いるぜ、この凍京には」
「いる事はいるが、奴等はダメだ。ホントに腐っちまってる奴等ばかりだ。おまけに民間の奴等はどうにも口が軽くていけない」
「俺だって口が軽いかもしれないぜ」
「いや、お前なら信用できる」
「信用――ねぇ」
「そうだ」
 祐一は、真っ直ぐに見つめてくる北川の目を見ながら、グビリとひと口酒を飲んだ。
「――とりあえず、どんな感じなのかを聞かせてくれ」
「受けてくれるのか?」
「いや、話を聞いてからだ」
「――仕方がないな。本当は受けてくれなきゃ話さないつもりだったんだが――まぁ、相沢だから、特別だ」
 北川がゴクリと酒を飲み干す。
 そしてポツリポツリと語りだした。
「栞が――狐に憑かれたのは昨日の事らしい」
「今日でまだ2日目か」
「昨日の夕暮れ時。栞は自宅の庭を箒で掃いていたらしい。これは家族の証言だから、たぶん信用できる」
「家族って母親か?」
「そうだ。それで母親が夕食の支度をしている最中に、いきなり庭から栞の奇声が聞こえてきた。驚いた母親が慌てて庭に飛び出すと、栞が手に持っていた箒でいきなり襲い掛かってくる」
「箒でか。そりゃぁ、勇ましい」
「母親は栞をなんとか羽交い締めにした。まぁ、栞はもともと病弱な女の子だからな、押さえるのはそんなに大変ではなかったらしい。ただ、その時の栞の暴れ様は凄かったみたいだ。それでな、そのとき妙な事を叫んだそうだ」
「妙な事?」
「『刀を――刀をよこせっ!』ってな」
「刀? 刃物を欲しがったのか」
 そこで祐一は暫く何かを考える。
「それで、刀を渡したりしたか?」
「アホッ! そんな事するか!」
「そうか――」
「そうだ。当たり前だ。それでな、一時間程暴れたあと急に栞は大人しくなった。だがな、その後も虚ろな目で『刀、刀をくれ』って呟くそうだ」
「また刀か」
「これは狐に憑かれたに違いないって思った母親は、すぐに部屋に結界をはり、その部屋に栞を寝かせた」
「懸命な処置だな。さすが白道課の師長の母親だ。それで栞は今はどんな感じなんだ? まだ『刀をくれ』って言ってるのか?」
「いや、それがな、昨日のうちは『刀をくれ』と呟いていたらしいのだが、今日の朝になって急に『氷菓をくれ』と言い出したそうだ」
「氷菓?」
「氷菓子だ。あの、氷の塊を少しづつ砕いて、それにシロップをかけて食うやつだ」
「変なもんを食いたがる狐憑きだなぁ。それでくれてやったのか?」
「いや。下手に与えて事態が悪化するのを恐れて、両親はそのままに放って置いたそうだ」
「それも懸命な判断だ」
「それでな、美坂の父親から今日、虎王隊の方に内密に話が来たんだ。『娘が狐に憑かれたらしい。何とかしてくれ』ってな。んで、虎王隊も隊長が討伐に出張ってるだろ。それでオレの所に話がまわって来たと」
「成る程ね――」
 祐一はコップに残っていた酒を飲み干してから、窓の外に目を向けた。
 窓の下には神陀川が流れている。
 その黒い水面は絶えず変動しながら、うねうねと流れ続けていた。
 まるでこの凍京の全てを飲み込んでいるよう――。
 北川はじっと祐一を見つめたあと、何も言わずにコップに酒を注ぎ、それをゴクリと飲んだ。
 暫くの沈黙。
「行くか――」
 祐一が川を見ながらポツリと言った。
「やってくれるのか」
 北川がコップを置いて訊き返す。
「まあな」
「今からか?」
「そうだ。はやい方が良い」
 祐一が空を見上げる。
 空は真っ赤に染まっていた。
「日が落ちると面倒な事になる」
 祐一が無言で立ち上がる。
 北川もそれに続いて立ち上がる。
「美坂の家はどこだ?」
「九壇(くだん)だ」
「ここから近いな」
「ああ、15分もあれば行ける」
「行くか」
「行こう」
 二人はそれだけ言うと、四畳半の狭い部屋を後にした。


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