夕暮れの街並みを二人は歩いていた。
他愛のないことを話しながら、祐一と北川は九壇の美坂邸に向かう。
二人はまず博山(はくさん)通りまで歩き、そこから通りを南へと進んだ。
博山通りは神陀地区を南北に走る通りである。
この通りには多くの本屋・古本屋、定食屋が立ち並んでいた。御崎町界隈には多くの製本業者が集まっており、そのせいもあって、ここら一帯には本屋や古本屋が多いのだ。
また、近辺には何校か大学も立っており、学生の街としての一面も見せていた。昼間は学生などで賑わうこの通りは、夜になると社会人も加わりさらに賑やかになる。特に夕暮れから酒を振舞う定食屋では、学校帰りの学生や仕事帰りのサラリーマンがたむろし、この世の鬱憤を全て晴らすべく、みなみなで騒ぎたてていた。
いつもの祐一と北川なら、この騒ぎに加わり酒に身を任せるのであるが、今日の二人はそうもいかない。二人は軒先から漂ってくる酒と肴の匂いに耐えつつ、目的地へと向かった。
しばらく通りを進むと、博山通りと泰邦(やすくに)通りとが交差する。泰邦通りは、この凍京の街を横断する大通りであり、西は真宿(しんじゅく)、東は朝草(あさくさ)・領国(りょうごく)に続いている。
この通りには博山通りとは違い、三階立てや四階立ての近代的なビルが立ち並んでいた。
昼間はたくさんの人間がつめこみ働いているビル群であるが、一日の仕事を終えた人々が博山通りの方に流れていってしまうと、途端にもの静になってしまう。点々と立つガス灯に照らされた物言わぬ石塔は、どこか巨大な墓標に見えないこともなかった。
二人は博山通りと泰邦通りの交差点――この辺りを人望(じんぼう)町と呼ぶ――を西へと折れ、今度は泰邦通りを真宿方面へと進んでいった。
泰邦通りを少し西に歩くと、そこはもう九壇町である。
二人が九壇町に入ったころには、空はだいぶ暗くなっていた。
九壇に入ってからも泰邦通りを西へと進む。
数分も歩かぬうちに、左手に内堀(うちぼり)川が見えてきた。
この内堀川の向こうは、江渡(えど)の森と呼ばれる地区で、術官の住居がひしめいている。
なかでも江渡の森の北部、ここ九壇にかかる多安(たやす)橋を渡った辺りは喜多野(きたの)地区と呼ばれ、白道課の住居が集まっている場所であった。
例の美坂邸があるのも、喜多野地区である。
祐一と北川は、内堀川を渡って喜多野に入ろうと多安橋にやってきたのだ。
二人はそのまま橋を渡ろうとする。
だが、二人の前に立ちはだかる者がいた。ここ多安橋を警護する者達である。この国では術官はエリートに当たるため、その居住区である江渡の森に続く各橋々には、門衛としての警吏が配置されているのだ。だからこの多安橋にも警吏が立っていたし、橋の脇には警吏の詰め所もあった。
橋の両側に立っていた警吏のうちの一人が、祐一と北川を不審者と認め、二人の前に立ちはだかったのである。
祐一は警吏を無視して先に進もうとした。
しかし、警吏が持っていた棒を真横に構え、祐一の進行を阻んだ。
「ここに何のようだ?」
警吏が二人に詰問する。
「この先に用事があるんだ」
祐一が一歩前に出ながら言った。
その祐一の前に警吏が素早く回り込む。
「こんな時間にか? 怪しい奴等だな」
警吏が祐一をじろじろと見つめる。
「この先に何があるのか知っているのか?」
「白道の連中の住居があるんだろ。そんなことは凍京府民なら誰だって知っていると思うぞ」
祐一の馬鹿にするような返答に、警吏が少し気を悪くする。
「こんな時間に喜多野に何の用だ?」
「それは秘密だ」
「秘密だと?」
警吏がいぶかしげな視線を祐一に向けた。
「おい、北川。通してくれないぞ」
祐一が振り返りながら北川に言った。
「相沢。そんな態度をとってたら、通してもらえるものも通してもらえなくなる」 「じゃあ、どうすればいいんだ?」
「ここは俺に任せておけ」
北川が、懐から護身刀を取り出す。そして、その柄の部分を警吏に見せた。
「俺は北川潤。虎王隊の副隊長だ」
警吏は、柄に彫られていた副隊長章と北川の顔とを交互に見比べた。
「わけあって今から、白道課の美坂さんのところに行かなければならない。だから通してもらえないだろうか? 白道課には話が通っていると思うのだが……。もしなんなら、美坂さんに確認してくれ」
北川が警吏に頼む。
警吏は「すこし待ってろ」と二人に言い、詰め所の方に走っていった。
「おい、北川。一人いなくなったぞ。今のうちに渡れないか?」
祐一が笑いながら北川に言う。
「相沢、少しぐらい大人しくしてろ」
「へいへい。わかりましたよ〜だ」
「……おまえ、この状況を楽しんでるだろ」
「そんなことないぞ」
祐一はさも楽しそうに北川の顔を見た。
待つこと数分。
詰め所の方から、さっきの警吏ともう一人上官らしい警吏が出てきた。
「北川副隊長!」
上官らしき方が北川に声をかける。
「ん? 中野か。そういえば、今夜の警備は庚組だったな」
「はいっ。朝までは庚組です。明日になったら辛組に引き継ぎます」
中野と呼ばれた男が答える。
「中野。俺達はここを通りたいのだが、構わぬか?」
「はいっ、大丈夫です。お通り下さい」
中野がはきはきとした口調で答えた。
「うん、じゃあ、通らせてもらうぞ」
北川と祐一が橋を渡りはじめる。
その横で、さっきの警吏が敬礼をした。どうやら北川が自分の上官であることを認識したらしい。
「おい、よせよ」
敬礼する警吏を見て、北川が困った顔をする。
「いえ! 隊長に対しての無礼、深くお詫び申し上げます」
そう言って警吏が北川に頭を下げた。
「おいおい」
北川が苦笑する。
「おい、北川。さっさと行こうぜ」
祐一が北川に声をかける。
「ああ、わかってる」
北川はもう一度警吏を見たあと、急ぎ足で橋を渡り始めた。
橋を渡る二人の後ろで、さっきの警吏はずっと敬礼をし続けていた。
「さすがは虎王隊副隊長様だ」
橋を渡りきったところで、祐一が笑いながら北川に言った。
「こういうときだけは、身分が役に立つ」
北川が苦笑しながら護身刀を懐にしまう。
「俺だけだったらきっと、あの橋を渡れなかったぞ。まぁ、こんなことでもなければ渡ろうとは思わんが」
「誰でも渡れるのが一番いいんだがな」
二人は江渡の森、喜多野地区を進んで行く。
喜多野は、川の向こうの街並みとは違い、鬱蒼と木の茂る静かな土地であった。
ところどころに門扉が佇んでおり、その入り口ではちろちろとかがり火が燃えている。
いつのまにか日は沈み、代わりに月が昇っていた。
北川が天を仰ぐ。
「相沢、日が暮れてしまったぞ」
「ああ。面倒なことにならなければいいがな」
祐一があまり困ったような感じを見せずに言う。
むしろ北川の目には、日が暮れたことを祐一が楽しんでいるように見た。
「おまえ、気楽だな」
「そうか?」
「そうだよ」
北川は、今にも鼻歌を歌い出しそうな祐一の顔を見つめる。
そのときふと、前々から抱いていた疑問を訊いてみようという気になった。
「相沢、一度訊きたかったんだが」
「なんだ?」
「どうして暗くなると妖物の力が強まるんだ?」
「そんなのは簡単だ。そこらが闇だらけになるからだ」
「闇か……」
北川が辺りを見渡す。
二人の周り広がる暗い林。
白道領の敷地内にはガス灯がない。よって、頼りになるのは月明かりだけである。
しかし今宵の月は、道を照らすのに十分とはいえなかった。
だから二人の周りには薄闇が広がっている。
「例えばな――」
祐一が歩きながら話を始める。
「――魚がいるとしよう」
「さかな? 魚って、あの、川とか海にいるやつか?」
「そうだ。酒の肴じゃないぞ。泳ぐ魚だ」
「馬鹿にすんなよ……。とにかく魚だな」
「魚はな、水の中だと元気だろ」
「ああ」
「じゃあ、水の中から出したらどうなる?」
「苦しんで、そのうち死ぬな」
「妖かしは魚で、闇は水だ」
「ふーん、なるほどねぇ……」
「日の暮れた世界は、妖物にとってもっとも居心地の良い場所さ。夜になると力が増すんじゃない。昼の間は力が出せないが正しい」
「そうすると、日の光の下だと妖物は死ぬのか?」
「死ぬというか、消えるな。大概の奴等は存在できなくなる」
「死なないのもいるのか?」
「ああ、いる。水から出ても、元気に空を泳ぐ魚もいるんだよ」
「ほ〜」
北川が感心する。
「それにな、日中でも闇はある。その中に隠れる奴等もいる」
「日陰の中とかに隠れるのか?」
「そこもそうだが、もっと暗い場所があるんだ」
「どこだ?」
「それは秘密だ」
祐一が「自分で考えてみな」と笑った。
「どこだ?」
北川はアゴに手をやりながら考える。
洞窟、昼なお暗い森、深い海の底。
縁の下、押入れの奥、天井裏。
ふと北川は地面を見る。
大地。
この大地の下に、日の光は届くのだろうか?
「それで、北川。美坂の家にはまだ着かないのか?」
考え込む北川に祐一が声をかけた。
「ん? ちょっと待て。確かこの辺りの道を入った辺りに――」
北川は顔をあげ、辺りを見渡す。
そして近くの細い脇道に足を踏み入れた。
祐一もそのあとに続く。
「――ああ、あった。あったぞ相沢。入り口のかがり火が見えるだろ」
そう言って北川が道の先を指す。
前方に広がる真っ暗な空間。
その闇の中に、赤い炎がゆらりと揺れていた。
「いらっしゃいませ」
二人を出迎えたのは、35歳ぐらいの巫女装束を来た女性であった。
「美坂さん、夜分すみません」
北川が挨拶をする。
「いいえ。お忙しいなかわざわざ来ていただいて、お詫びしなければならないのはこちらの方です。本来は主人が出迎えなければならないのですが、あいにく今夜は帰ることができないそうなので……」
そう言って女性が深々と頭を下げる。
「とにかく、あがってください」
女性の言葉に従い、二人は家の中へとあがりこんだ。
「とりあえず、こちらへ」
女性が二人の先にたって歩き出す。
二人はそのうしろについて、板張りの廊下を進んで行く。
「なぁ、誰だ?」
歩きながら、祐一が小声で北川に訊いた。
「美坂栞の母親だ」
北川が小声で返す。
「そうか」
三人は、しばらく無言で広い屋敷を進んだ。
途中祐一が、窓の向こうに見える離れの方を気にした。
「どうした? 相沢」
北川が小声で祐一に訊く。
「かなり頑強な結界だな」
「結界?」
北川も離れを一瞥する。
「少し、気が混じっているようだが……」
祐一はそう呟くと、再び美坂夫人のあとに続いて歩き出した。
美坂夫人は二人を、離れからそう遠くない部屋へ案内した。
「とりあえず、ここへ」
美坂夫人がすっと襖を開け、二人を中へと促す。
二人はそれに従い、無言で部屋に入った。
部屋の中には、一人の少女が座っていた。
「おや?」
北川が先客に気付く。
相手も北川に気付き、北川を見あげた。
「君は確か、天野さん……」
「虎王隊の副隊長さんではないですか」
お互いに「なぜここに?」という顔をする。
「なんだ、北川。知り合いか?」
祐一がその辺に寝転びながら言った。
「おい、相沢。人の家だぞ」
北川が祐一の隣に座る。
祐一は、「わかった、わかった」と呟きながら上体を起こした。
美坂夫人は二人が座ったのを見届けた後、「少しお待ちください」と言って部屋から出て行った。
部屋には祐一と北川と少女だけが残された。
「北川の知り合いなのか?」
祐一があぐらをかきながら少女のことを北川に尋ねる。
「ああ、そうだ――」
北川が少女の顔を見た。
「――彼女は天野美汐さん。都護府庁の人だ」
「都護府庁?公務員か……」
祐一が美汐の顔をしげしげと見つめる。
「あの、北川さん、こちらのお方は……」
美汐が迷惑そうな顔をしながら北川に尋ねた。
「こいつは相沢祐一。俺の悪友で一応陰陽師だ。うさんくさい奴だが、まぁ、いい奴でもある」
北川が美汐に祐一のことを紹介する。
「おい北川、違うぞ。まだ国家試験を受けてないから陰陽師じゃない。ただの書生だ」
祐一が北川の言を訂正した。
「はじめまして、相沢さん。天野美汐と申します」
美汐が丁寧に頭を下げた。
「ああ、はじめまして」
つられて祐一も頭を下げる。
「それで――」
二人が顔をあげたのを見計らって、北川が美汐に質問した。
「天野さんはどうしてここへ?」
「たぶん、北川さんと同じ理由です」
そう言って美汐が祐一を見る。
「陰陽師を連れて来られたということは、北川さんも栞さんの件でここにいらしたのでしょう?」
「ああ、その通りだ。すると天野さんも?」
「そうです」
美汐が頷く。
「俺は美坂さんに……、美坂総務部長に頼まれてここに来たのだが、天野さんはどうしてここに?」
「美坂部長は、私の上司にあたる人ですから。それに――」
美汐が辛そうな表情を浮かべる。
「――栞さんは私の親友なんです」
美汐が拳をぎゅっと握り締めた。
「あと私の知り合いに一人、妖怪変化に強い娘がいますので、栞さんを救えるのではないかと思って……」
「妖怪変化に強い人って、真琴さんのことか?」
「はい……」
美汐が少し下を向く。
「真琴っていうと、沢渡真琴のことか?」
突然、祐一が美汐に訊いた。
「えっ? 知っているのですか?」
美汐が驚く。
「あの、ものみの妖狐のたった一匹の生き残りだろ?」
美汐が驚愕の表情のまま祐一を見つめる。
「そんなことまで……」
唖然とする美汐。
「北川さんが教えたのですか?」
美汐が北川を睨むように見た。
「いや、相沢には一度も話したことはない。おい、相沢。どうして知ったるんだ?」
北川が祐一に訊く。
「ああ、陰陽師仲間に聞いたんだ。んー、まぁ、もぐりの陰陽師ってのは、こういう情報には耳が速いからな」
祐一が頭をかきながら言う。
「そう――なんですか」
美汐がため息をついた。
「それで、今日は来てるのか? 一度会ってみたいと思ってたんだ」
祐一が楽しそうに言った。
「はい。今日こちらに来ています。それで今、真琴が栞さんの様子を見に行ってるところです」
「なにっ、それは本当か!」
祐一がいきなり立ち上がった。
「おい、相沢。どうした?」
北川が祐一をいぶかしげに見上げる。
「離れに行く」
「はっ?」
「妖孤の能力を見てみたい」
祐一が襖に手をかける。
「おい、ちょっと待てよっ!」
北川が立ち上がり、祐一の肩に手をかけた。
「なんだ、北川」
「美坂さんが帰って来るまで待てよ」
「どうせ後で行くんだ。今行ったって同じだろう。それにたぶん、美坂さんも離れにいるさ」
「なんでわかる」
「美坂さんが、俺達をここに案内したあと部屋を出て行ったのは、おそらく離れの様子を見に行くためだ。栞のことが気になったのだろうし、今の栞の状態を俺達に説明するためにも、例の真琴の治療がどんな様子なのかを見ておこうと思ったんだろう」
「そうか。そう言われれば、そんな気もするな……」
「だから俺も、離れの様子を見に行く」
祐一が襖を開ける。
「待てっ!」
出て行こうとする祐一を再び北川が止めようとしたとき、屋敷の中に女性の悲鳴が響き渡った。
「!!」
三人がそれぞれに何かを感じる。
「気が乱れた!」
祐一が部屋から飛び出した。
「真琴っ!」
美汐も立ち上がり、部屋から飛び出る。
「なんだ!? 今の声は! 祐一っ! 天野さんっ! ええい、ちくしょうっ!」
北川も二人の後を追って、部屋から飛び出していった。
(三章へ)
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