第四章 「北川潤」



 北川潤は美坂栞の前に座っていた。
 栞は腰のあたりまで布団に入り、上体だけを起こして北川の方を向いていた。
 部屋の中には北川と栞しかいなかった。
 北川が今いるのは、九壇の美坂邸の一室である。
 意識の回復した栞に、あの日の事件についての話を訊いているのだ。
 事件からは既に五日が経っていた。
 栞の顔色は、五日前に見たときよりは良くなっているよう北川には感じられた。
 北川がここを訪れた本来の目的は栞の見舞いであった。
 だが思ったより栞が元気そうだったので、北川は栞に事件について訊くことにしたのだ。
 北川は三十分程前から栞に色々と質問をしていた。
 それらの質問に、栞ははきはきと答えてきた。
 今は栞の返答を聴いた北川が、それを手帳に書き込んでいるところである。

「まだ大丈夫か? 栞」
 一通り書き込んだあと、北川が手帳から顔をあげて栞に尋ねた。
「はい。大丈夫です」
 栞は元気に答える。
「そうか。ならあと少しだけ話を聴かせてくれ。いいか?」
 栞が返事の代わりに首を頷かせる。
 それを見てから北川は、持っていた手帳をパラパラとめくった。
「狐に憑かれていたときの記憶はあるか?」
「いいえ、全然ないです」
「記憶はまったくなしと」
 北川が帳面に細かい字を書き込む。
「憑かれる直前のことを、覚えている範囲でいいから教えてくれないか?」
「はい……」
 栞が一度、小さく息を吸った。
「あの日、私箒で庭を掃いていたんです。時刻は夕方頃。ちょうどお母さんが夕飯の支度をしてました」
 北川は手帳を見て、今の栞の証言が母親の証言と同じであることを確認する。
「私はしばらく庭を掃いていました。そのとき、妖気を感じたんです」
「妖気……」
 北川の眉がぴくりと動く。
「どんな感じの妖気だった?」
「とても暗い妖気でした。禍々しいっていうのでしょうか。それがどうやら私の家の前の通りを走ってくるみたいなんです。いったい何事だろうって思って、怖かったんですけど、門から顔を出してみました」
「門の外には何かいたのか?」
「はい。人です。人がいました。人が人を追いかけてました。家の前の道をこちらに向かって走って来ていました」
「追いかけていたってことは、何人かいたんだな。二人か? それとももっと沢山か?」
「たぶん二人だったと思います。片方が片方を追いかけていたみたいですね」
「その二人の人相とか覚えてないか?」
「いいえ。もうだいぶ暗くなってましたので……」
「そうか……。続けてくれ」
「こんな時間にこんな場所を走ってるなんておかしいなぁと思ったんです。そやって眺めていたら、いきなりチクッと――」
 栞が鎖骨のあたりを寝巻きの上から指差す。
「――この辺りに痛みがはしったんです。何だろう、何か刺さったのかなって思った途端、急に意識が遠くなっていって……」
「そのあとは覚えてないと」
「はい」
 栞の返答を聴いたあと、北川が真剣な顔をして栞を見つめた。
「栞。もしよかったら、その痛みがはしったって場所を見せてくれないか?」
「ここをですか?」
 栞が首の付け根の辺りを寝巻きの上から押さえる。
「いや、別に嫌ならいいのだが……」
「別にいいですよ」
 そう言って、栞が寝巻きを少しずらした。
 栞の首から左肩にかけてがあらわになる。
「む……。そ、それじゃぁ、失礼する」
 北川は顔を赤くしながら栞の肌を見た。
 そしてすぐに、左の鎖骨の下部にほんの小さな、点みたいな傷が一つあるのを見つけた。
 北川はその傷口をまじまじと見つめる。
「ちょっと恥ずかしいです……」
 栞が顔を赤くした。
「あ、わ、悪い。嫌だったらやめる……」
 北川も赤い顔で答える。
「……大丈夫です」
 栞の言葉を聴いて、北川は再び傷を調べはじめた。
 傷は本当に小さなものだった。
 傷口はカサブタで覆われている。
 あと二、三日もすれば綺麗に消えてしまうであろう。
「さすがに妖気はもうないか。それにしてもこの傷は……、間違いないな」
 北川が栞の肌から顔を反らす。
「栞、もういいぞ。調べ終わった」
 栞がそそくさと寝巻きを直す。
 その間、北川は今見た傷のことを帳面に書き込んだ。
「ありがとう栞。参考になったよ」
 北川が手帳を閉じながら栞に言う。
「終わりですか?」
「ああ。訊きたいことはもう全部訊いたからな」
「だったら、あの、私も一つ訊いていいですか?」
「え? いいけど」
「あの、私――」
 栞はそこで一旦言葉を止める。
 そして少し躊躇してからもう一度言葉を紡ぎ出した。
「私、狐に憑かれているときに何かしたんですか? 私が目覚めたとき、お母さんも少し調子悪そうだったんです。いつもよりずっと疲れてるみたいで……。だから私、お母さんに何かしたのかも……」
 栞が不安そうな顔をする。
 その顔を見て、北川は栞に優しく言った。
「栞は憑かれた状態でずっと眠っていたよ」
「本当ですか?」
「本当さ。栞のお母さんの具合が悪かったのは、他の悪霊がこの江渡の森に現れたからだ」
「そうなんですか」
「そうだ。人だか物の怪だかわからない怪しいやつでな。俺が追いかけたんだが、逃げられてしまった」
「逃げちゃったんですか?」
「ああ……。けど大丈夫だ。虎王隊の名誉にかけても捕まえてみせるさ。だから安心してくれ」
 北川が拳を握り力瘤をつくる。
 それを見て栞がくすっと笑った。
「それにな、栞。もし栞が何かしていたとしても、悪いのは栞じゃない。栞に憑いていた狐付きが悪いんだ。だから栞はいらぬ心配をしなくてもいいよ」
「でも……」
「栞のお母さんが疲れて見えるもう一つの理由は、娘が心配だからだよ。心の中で常に栞のことを気にかけてるから、その様子が表に出てしまうんだ。だから、お母さんに心配かけたくなかったら、早くその体を良くする事だ。そうすれば、お母さんも元気になるよ。さ、お休み」
 北川が栞に横になるように促す。
「そうですね」
 栞は北川の言葉に従い、布団の上に横になった。


 部屋を出ると、そこには栞の姉――白道方術課雪術師長、美坂香里が立っていた。
「終わったの?」
 香里が北川に声をかける。
「ああ。香里、聴いてたのか?」
「悪かった?」
「いや別に構わないが……」
「そう……」
 香里が北川をじっと見つめた。
「ねえ、北川君。ちょっとお茶でも飲んでいかない?」
「そうだな。じゃあ、お言葉に甘えて」
 北川の返答を聴くと、香里は「こっちよ」と言って廊下を歩き出した。

 北川が通された部屋は、この前、北川と祐一と美汐が一緒になった部屋だった。
 香里がお茶とお茶菓子を持ってくる。
「いつ帰って来たんだ?」
 北川が香里に訊いた。香里が参加していた甚大村の塩衛門討伐のことを訊いているのだ。
「一昨日よ」
 香里が短く答えた。
「うまくいったのか?」
「ええ。倉田長官も満足してたわ」
「そりゃあよかった」
 北川がずずっとお茶を飲む。
「ねえ、北川君――」
 香里が真っ直ぐに北川を見つめた。
 その表情はえらく真剣であった。
「――私の留守中に何があったのか教えて」
「聴いてないのか?」
「大まかなことはお父さんに訊いたわ。けど、細かいところまでは……」
「そうか……」
 北川はお茶をひと口飲んだあと、香里に五日前のことを語りだした。

 北川が全てを語ったあと、香里が一言「ありがとう」と言った。
「香里、俺は特に何もしてないよ。御礼なら相沢に言ってくれ」
「ええ。近いうちに相沢君にもお礼を言いに行くわ」
「そうだ。それがいい。今回の事での一番の功労者は相沢だ」
「けど、その相沢君を連れてきてくれたのはあなただわ。それに、さっき栞に……、栞に黙っててくれて」
「ああ、それか。いくら憑かれていたからって、自分が母親を刺したなんて知ったらショックだからな。けど俺、あの娘に嘘ついたことになるんだよなぁ。それに、俺嘘下手だからばれてるかもしれないし……」
 北川がバツの悪そうな顔をする。
「優しいのね」
「そんなことはないよ」
 香里に見つめられて、北川は照れ隠しにお茶を飲んだ。
「それで――」
 香里が北川に尋ねる。
「――その栞が見た二人組みが、例の斬鬼と黒い人影だったのかしら?」
「たぶんそうじゃないかと思う」
 そう言って北川が懐から手帳を取り出す。
「その栞が憑かれた日の夜にな、半像橋の辺りで斬殺死体が見つかってるんだ。仏の名前は矢川宿次郎。見事に真っ二つにされていたらしい。この矢川って男、実は盗賊集団・南武一味の者でな。仲間割れかなんかで殺されたもんだと思っていたんだが……」
「その矢川って男が、栞の見た人物じゃないかと」
「ああ、そのとおりだ、香里。こっから先は相沢の推理なんだが。おそらく矢川は斬鬼に憑かれていたんだと思う。だがそこを例の黒い奴に見つかった。黒い奴は矢川を斬ろうとした。もちろん斬鬼は逃げる。しかし、矢川の肉体では黒い奴から逃げ切ることができそうもなかった。そのとき斬鬼は栞の姿を見つけた。これはたぶん栞が門から顔を出したときじゃないかと俺は思う。栞を発見した斬鬼は一か八かの勝負に出た。己の一部を矢川の中に残し、本体を栞の体に移そうとしたんだ。これはかなりの賭けだ。何故なら、もし後ろの黒い奴に気付かれれば栞の体では抵抗することなんてできない。一太刀で斬られてしまう。しかし、もし気付かれなければ、斬鬼は黒い奴を暫く撒くことができる」
「斬鬼は賭けに勝ったってわけね。黒い人影はそのことに気付ずに矢川を追い、半像橋で斬り殺した……」
「ああ。それが相沢の推理だ。今日栞の話を訊いて確信に変わったがな」
「ねえ。斬鬼はどうやって栞に乗り移ったっていうの? 何かで斬ったり刺したりしないと乗り移れないんでしょ?」
「矢川はな、『毒針の矢川』っていう二つ名を持っていたんだ。南武一味の中じゃ暗殺を担っていたらしい。奴は、吹き矢の名手なんだ」
「走りながら栞に針を飛ばしたっていうの?」
「そうだ。針に己を封じ込めて、そいつを栞に撃ち込んだんだ。今さっき見せてもらったんだが、栞の肌に針で刺されたような傷跡があったよ――」
 北川は手帳をパタンと閉じ懐にしまった。
「――全部相沢の推理通りだったわけだ」
 北川がまたひと口お茶を飲む。
「北川君。今話てくれたことって、全部相沢君が推理したことなの?」
「ああ、そうだ。俺がある程度情報を集めて持っていくとな、あいつはいつも答えを出してくれるんだ」
「すごいわね」
「どっから仕入れてくるのかはわからんが、あいつの知識と情報量は並みじゃないからな。特に怪力乱心に関しては異常な程詳しい。ま、おかげで助かってるんだが」
「それだけの知識を持っているのなら、国家試験を受けて術官になればいいのに」
「俺も言ったさ。けどな、何回『受けろ』っていっても、『めんどくさい』って言って受けないんだ、あいつ。それで普段何をしているのかと思えば、毎日何もせずに川を見てるだけ」
「不思議な人ね、相沢君って」
「俺もかれこれ一年程のつきあいになるが、あいつのことは未だによくわからんよ」
 そう言って北川は残っていたお茶を飲み干した。

「ところで香里。今日暇か?」
「ええ。特に用事はないわ」
「そうか。なら、ちょっと付き合ってくれないか?」
「何? デートのお誘い?」
 香里がくすりと笑う。
「それだったら嬉しいんだが……、それがな、その……」
 北川が視線を香里から逸らす。
 その様子から、香里は北川の言いたいことを感じ取った。
「事件に関係あることなのね。その例の斬鬼の……」
「そうなんだ。見てもらいたい現場があってな……」
「現場? 辻斬りの現場かしら?」
「実は、そうなんだ……」
「女の子を誘う場所じゃないわね」
「嫌だったらいいんだ。無理しなくてもいい。もともとこれは俺たち虎王隊の仕事だし……」
「いいわよ。私も栞の敵をとりたいし。手伝うわ」
「すまないな、香里」
「そのかわり、次はデートに誘ってよね」
 香里の言葉に北川が顔を少し赤くした。




「この雑木林?」
「そうだ」
 北川と香里は壱ヶ谷(いちがや)の雑木林の前に立っていた。
 壱ヶ谷は九壇の西に位置する住宅地である。
 閑静な高級住宅街であり、祐楽町の都護府庁に勤める公務員の高官や都護府議員の住居などが数多くある。
 また、ところどころに白道課の社や青道課の寺院が建立されており、その社や寺院の周辺には雑木林が広がっていた。
 北川と香里が訪れた雑木林も、そんな中の一つだった。

 北川と香里は雑木林の中の小道に足を踏み入れた。
 この先をずっと行くと、青堂課の小さな寺院に通ずる。
 その寺院と街道のちょうど中間あたりで、北川ははたと足を止めた。
「ここだ」
 そう言って北川が振り返る。
「ここが、その現場なの?」
 香里は周囲を見回してみた。
 道幅はそんなにない。人が二人すれ違える程度だろうか。
「こんな狭い場所で……」
 とても刀を振るえるような場所ではない。
 試しに手を横に伸ばしてみる。
 手はすぐに、道の両脇に乱立している樹木に触れた。
「ん?」
 香里はその樹皮の手触りが異様なのに気付いた。
 手をどけてみる。
 樹皮には、深くえぐられた傷が幾筋もはしっていた。
 よく見ると、近くにある木々にも刀でえぐったと思われる傷が沢山ついていたし、斬り倒されて地面に転がっているものも何本かあった。
「本当に、ここで……」
 香里は枝や葉が散らばっている地面にも視線を向ける。
 大地には、ところどころに黒い染みができていた。
「どうやらここで誰かと誰かが斬りあったみたいね」
 香里がぽつりと言う。
「俺たちもはじめは、誰かがここに死体だけを捨てていったんじゃないかと思った。だが周りの様子をみて、辻斬りがあったものと判断した」
「斬鬼の仕業?」
「そこまではわからない。だが虎王隊はそう認識している」
「それで、私はどうすればいいの?」
「ここに残っている気を調べて欲しいんだ。何種類かあるみたいなんだが、俺たち武官じゃ細かいことまではよくわからんからな」
「事件があったのはいつ?」
「昨日だ。通報があったのが昨日の八時頃。うちの虎王隊が駆けつけたのが八時半」
「一日経ってるのね。それだと、そこそこしか気が残ってないかも……」
 そう言って香里は静かに目を閉じる。
 目で見えるものを遮断し、目で見えないものを見るためだ。
 体中で周囲の空気を感じ取る。
 己の霊感を総動員し、現場に残っている気配を広い集める。
 そんな香里を北川は黙って見つめていた。
 林の中は静かだった。
 草の陰で虫が鳴いている。
 どこか遠くから鳥のさえずりが聴こえる。
 ときおり吹く風に揺られて、木々がざわざわと音を立てる。
 それでもやはり、林の中は静かであった。
 暫くして、香里がゆっくりと目を開いた。
「だいたいわかったわ」
「どんな感じだ?」
「ここに残っている気は四つね。二つは人間のもの。一つは人の気と妖気が交じったもの。もう一つは……、最後の一つはよくわからないわ。物の怪のようにも人のようにも感じられるの」
「人が三人いたのか?」
「そうね。けど、一人はここで亡くなったみたい。人が死ぬときに発する独特の気が残ってるわ」
「あとの二人は?」
「一人は死んだ様子はないわね。けど、もう一人は、妖気が交じっていた人は亡くなってる……。だけど、妖気が滅びた様子はないわ」
「気は四つ。三つは人間。三人いて二人が死亡。一人は生き残っているらしい。そして人かどうかが不明なものが一つ……」
「ここに残っている気を読んで得られる情報はそれぐらいだわ」
「その、人かどうかわからない奴は、おそらく例の黒い奴だな。妖気が交じっていた奴は斬鬼が憑いていた人間。そして、黒い奴か斬鬼のどちらかに斬られたのが一人いて、その他に生き残りが一人……」
「生き残った人は、たぶん斬鬼に憑かれていると思うわ」
「そうか。やっぱりこの場にいたのか……」
 北川の声が震えた。
「どうしたの、北川君?」
 香里は北川の様子が少し変なのに気付いた。
 何か、一生懸命に自分の感情を抑えようとしているのが感じられるのだ。
「昨日、ここに来たときな――」
 北川が低い声で語りはじめる。
「死体が二つあったんだ。死体はどちらも刀で真っ二つにされていた」
 北川が奥歯を噛み締める。
「仏のうち、片方はすぐに身元がわかった。わからなかったもう片方も、調査の結果、日野五平という侍だということがわかった。この日野という男は、たぶん俺たちが香里の家に行ったあの夜に斬鬼が取り憑いた侍だ」
「片方の身元はすぐにわかったって、まさか――」
 香里は「あなたの知り合い?」という言葉を飲み込んだ。
 北川はふらりと香里の方を向く。
 そして、感情のない声をゆっくりと紡ぎ出す。
「もう片方の仏の名は阿佐ヶ谷章介。虎王隊戌組の組頭だ」
 北川の目は、悲しみに満ちていた。
「虎王隊の組頭が殺されたの?」
 香里が驚愕の声をあげる。
「ああ、そうだ。ここにいた奴は、俺の部下を斬っていったんだ」
 北川の声には抑揚がない。
 しかし、その拳は固く握られていた。
「嘘でしょ。だってあの虎王隊の組頭でしょ……」
 香里が絶句する。
 それもそのはずである。
 あの虎王隊の組頭が斬られたのだ。
 虎王隊はこの凍京の都を警護する武官である。
 武術に優れたものでなくては入隊できず、入隊してからも厳しい訓練を受ける。
 都護府の夜を跳梁する盗賊、辻斬り、殺人鬼、妖怪等を取り締まるためには、それらをはるかに上回る、圧倒的な強さが要求されるからである。
 だから武官の戦闘能力は並みではない。
 そこらのチンピラが幾ら集まっても、傷一つつけることはできない。
 新人の武官でさえ、町道場を一人で破れる程の実力はある。
 さらに虎王隊は、この国の武官の中でも、皇帝直属の鳳凰隊についで二番目の実力を持つ部隊なのである。
 その虎王隊で組頭を勤める程の男が斬り殺されたのだ。
 相手の力量は半端ではない。
 下手すると、虎王隊の隊長並みの実力を持っている可能性も有り得る。
「斬鬼か黒い奴か、どちらに殺られたのかはわからない。どっちにしろ、うちの隊員を斬り殺せる程の腕の持ち主がこの凍京をうろついているってことは確かだ」
 北川が低い声で言葉を続ける。
「問題はそれだけじゃないんだ。昨日、阿佐ヶ谷は高尾俊輔と一緒に壱ヶ谷を巡回していた。高尾ってのは戌組の隊員で、剣に関しては天賦の才を持った男だ。人間的にもよくできた奴で、じきに組頭になるんじゃないかと言いわれていた。その高尾が、昨日からずっと行方不明なんだ。今までは斬鬼を追っているか、または、高尾と同じように殺られたんじゃないかと思っていたが……。いや、そうであって欲しいと思っていたんだ。死んでいて欲しいってのは幾らなんでもあんまりだが、それでも、もう一つの可能性に比べればマシだったんだ。だったんだが――」
 北川は一度言葉を切る。

「斬鬼に憑かれたんだろうなぁ。やっぱり……」
 そういって北川が香里に背を向けた。
「高尾が相手じゃ、傷を負わずに押さえつけることなんてできないからなぁ。俺が高尾を斬らなきゃいけないのかなぁ……」
 ポツリといったあと、北川が天を仰いだ。
 香里には北川にかける声が見つからなかった。
 ただ黙って北川の背中を見つめる。
 そのとき香里は、北川の背中が細かく震えているのに気付いた。
「泣いてるの? 北川君……」
 香里がか細い声で訊く。
「……身内を失うのには慣れなくてな」
 背中を向けたまま北川が答えた。
 その声は、少し掠れていた。
 香里は暫くその背中を見つめたあと、背後から北川をそっと抱きしめた。

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