第五章 「水瀬名雪」



 太陽が燦々と輝く昼食時。
 水瀬名雪は、凍京都護府神陀御崎町の路地裏を歩いていた。
 幾つもの角を曲がり、細く折れた薄暗い道を進む。路地裏には、塵やら芥やら、兎に角何やら良くわからないもが散乱している。名雪はときどきそれらに足をとられながらも、ゆっくりゆっくりと道を進んでいく。歩く度に、手につけている小さな鈴がちりんちりんと鳴る。
 そうやって暫く歩いた先に、目的の建物が見えてきた。
 神陀川のほとりにポツンと立っている木造二階建ての小さなアパート。
 例の、相沢祐一が住み着いているアパートである。
 その今にも崩れ落ちそうなアパートの二階に続く階段を、名雪はゆっくりとのぼる。そして二階に二つしかない扉の一方を叩いた。
「祐一いる〜?」
「空いてるぞ」
「それじゃあ、おじゃまします」
 名雪が扉を開き、部屋の中に足を踏み入れる。
 部屋は相変わらずわけのわからない物で一杯だった。そしてそのがらくたの奥で、祐一がいつものように窓から神陀川を眺めていた。
「祐一、たまには部屋を片付けなよ」
「いつか、暇とやる気があったらな」
 祐一が神陀川を見つめながら言った。


「それで名雪。何しに来たんだ? まさか北川みたいに酒を飲みにきたわけじゃぁないよな」
 祐一が振り返りながら尋ねる。
「うん。今日はね、祐一にお礼を言いにきたんだよ」
 名雪は何も置かれていない場所を探し、そこに静かに腰をおろした。
「お礼? なんのだ?」
「栞ちゃんのこと」
「ああ、そのことか」
「香里から聴いたんだ。香里もね、ありがとうって言ってたよ」
「香里なら昨日来たぞ。それでこれを置いていった」
 祐一がガラクタの山に手を突っ込み、どこからか紙箱を引っ張り出した。
 箱の蓋を開ける。中には人形焼が詰まっていた。
 祐一はそれを一個摘み上げ、口の中へと放り込む。
「名雪も食べるか?」
「じゃあ、一個だけもらうよ」
 祐一は箱の中から人形焼を一個取り出し、それを名雪に渡した。
 名雪が人形焼を一口かじる。
 口の中にふわっと甘味が広がった。
「おいしいね」
「いいもんを貰ってしまった。そんなにたいしたことはしてないんだがなぁ」
 祐一が首筋を撫でる。
「そんなことないよ。祐一がいたから栞ちゃんが助かったんだよ」
 そう言って名雪は、自分の親友の妹の顔を思い浮かべた。
「ねえ、祐一――」
「何だ?」
「本当に、ありがとう」
 名雪が頭を下げる。
「よせよ」
 祐一は、照れ隠しでもしているのだろうか、視線をくるっと窓の外へ向けた。
 窓の下では、今日も神陀川が留まることなく流れている――。
「祐一――」
 再び名雪が祐一に声をかけた。
「今日、何か予定ある?」
「予定?」
 祐一が川を見つめながら答える。
「そんなものは、昨日も今日も明日もない。俺はただゆっくりと時に流されながら生きているだけさ」
「祐一がそんなことを言っても似合わないよ」
「そうか」
 祐一がおどけた調子で名雪の方へ振り返った。
「俺は今日も暇人だ」
「それなら、これからデートしようよ」
「デート? 誰と誰が?」
「私と祐一が」
「何で突然?」
「お礼だよ」
「お礼か……」
「嫌?」
「そんなことはないぞ」
「じゃあ、決まりだね」
「たまにはいいか。で、どこへ行くんだ?」
「上埜(うえの)なんてどう?」
「上埜か。久しぶりだな」
 祐一が立ち上がる。
 それを見た名雪も、周囲のがらくたを崩さないよう注意しながら立ち上がった。



 水瀬名雪と相沢祐一が知り合ったのは、ちょうど一年前になる。
 その当時、京皇(けいおう)と名乗る盗賊一味が凍京都護府を騒がしていた。
 京皇一味は夜半に銀行などに侵入し、守衛など居残っていた人間を滅多斬りにし、金を悉く奪っていくという極悪非道な集団であった。
 虎王隊はすぐに特捜課を組織し、この一味を追わせた。そして調べていくうちに、どうやら連中の中に術師崩れがおり、移動の際に方術や幻術を用いて姿を眩ましているらしいということがわかった。
 そこで虎王隊は白道課に協力を頼んだ。そのとき白道課より派遣されてきたのが名雪であった。
 名雪は、白道方術課月師団の団長なのである。
 また、白道課のトップ、水瀬秋子の娘でもあった。
 名雪は虎王隊の副隊長である北川と協力し、京皇一味を追い詰めた。
 だが一瞬の隙をつかれ、京皇の術師、幡ヶ谷に呪を掛けられてしまう。
 その名雪を救ったのが、たまたまそこに通りかかった祐一であった。
 祐一は名雪の呪を解くだけでなく、幡ヶ谷がその場にかけていた呪、八卦、方術、その他諸々を全て解除してしまった。術による後ろ盾を失った京皇一味は、あっさりとお縄になった。
 そしてそのときより、名雪、北川、祐一の現在の関係が始まったのだった。



「――それでね、『塩衛門』さんは、鬼さんじゃなくて狸さんだったんだよ」
 祐一と名雪は、上埜公園内にある偲不(しのばず)池のほとりに座っていた。
 二人は、上埜と御囲地町(おかちまち)の間にある、雨横(あめよこ)と呼ばれる商店街を探索したあと、ここ上埜公園までやって来た。
 偲不池をゆっくりと一周したあと、少し休もうかということとなり、池のほとりに備え付けられている木製のベンチに二人並んで座った。
 しばらく二人は黙って座っていたが、やがて名雪が、ついこの間まで参加していた甚大村の妖怪討伐の話を始めた。
 時折り吹く風に涼しさを感じながら、祐一は名雪の話をじっと聴いた。

「――それじゃあ、討伐は成功だったんだな」
 名雪が語り終えたのを見計らって、祐一が言った。
「香里は、成功だって言ってたよ」
「名雪はどう思うんだ?」
「私? 私はね、今回のは、討伐じゃなくて説得だと思うんだ。狸さんたちに、もう悪い事をしないよう言ってきただけだから。そういう意味では成功だと思うよ」
「説得か。けど、狸たちがそれを守り続けるかな?」
「それはわからない。けど、何も言わないよりはマシだと思うよ」
「まぁ、そうだな」
 そう言って祐一は、くっと背筋を伸ばす。
「ねぇ、祐一」
「どうした?」
「人と妖怪さんってわかりあえるのかな?」
「さぁ、……どっちとも言えんよ」
「私はね、人も妖怪さんも仲良く暮らせればいいのになぁっていつも思うの。それに、そういう方法はきっとどこかにあると思うんだ。だから私は、白道課でお仕事しながらも、いつもそういうことを考えてるんだよ」
「ふーん、そうなのか」
 暫く祐一が考え込む。
 園内を涼しい風がさっと吹き抜ける。
「けどな、名雪」
「うにゅ?」
「住み分けを提案したのは人だし、それを崩したのも人なんだぜ」
 そう言って祐一が空を見上げる。
 空は、眩しいぐらに青い。その明るさは、まるで祐一の身体に突き刺さるよう――。

「とにかく、討伐……、いや、説得は無事に済んだんだろ。なら暫くはゆっくりできるんだな」
 祐一が空から名雪に視線を移した。
「それがね、ちょっと忙しくなりそうなの」
 そう言って名雪がため息をつく。
「これからね、白道課全体でお引越しするんだって」
「白道全体で引越す?」
 祐一が珍しく驚きながら名雪に訊いた。
「江渡の森の白方神社も移るのか?」
「うん。夜々木(よよぎ)の方に新しいのを建てるって」
「じゃあ、この辺りの守りはどうするんだ?」
「私たちが引越したあと、青道課が引越してくるんだって。二重端(ふたえばし)の方で、もう青道課のお寺の建立が始まってるよ」
「そうか。それは全然知らなかったな……」
 祐一が池に群生する蓮を眺める。
 そして、小さな声でぽつりと言った。
「どうやら青道課の連中は、『江渡』の意味を知らないらしいな……」
「え? 祐一、今何か言った?」
「ん? いや、何も言ってないぞ」
 祐一がベンチから腰をあげる。
「それより名雪。こんなところにいてもいいのか? 引越しの準備とかあるんじゃないのか?」
 祐一に言われ、名雪が眉を寄せる。
「本当は準備をしなくちゃいけないんだけどね。忙しくなる前に祐一に会っておきたかったから。だから今日は……」
 名雪が祐一を見上げる。
「また、しばらく会えなくなっちゃうかも」
「けどそりゃあ、仕方がないだろ」
「それはそうだけど……」
 名雪はちょっとうつむいてから、小さく「寂しいよ……」と呟いた。


 このあと名雪と祐一は、凍京鉄道上埜駅に向かい、駅前の食堂で早めの夕食をとった。
 名雪は、上埜から御崎町まで列車で一緒に帰ろうと誘った。
 だが祐一は、これからちょっと寄るところができたといって、その誘いを断った。
 別れ際、名雪が祐一にもう一度尋ねた。
「人と妖怪さんは、一緒に住めるのかな?」
「それは、人の心次第だろ」
 それだけいって、祐一は駅の外へと歩いていった。
 名雪は祐一の背中を見つめながら、今祐一がいった言葉を考えてみた。
 しかし考えは、いまいちよく纏まらなかった。

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