第七章 「天野美汐」



 天野美汐は電車の揺れに身を委ねつつ、車窓の外を流れるゆく景色をそれとなく眺めていた。
 帝都山手線は都護府の外環をぐるりと一周する環状線である。その路線図は、まるで帝都の境界線であるかのようであった。
 それは内と外とを隔てる結界。
 内部では建物が密集している帝都も、外部には未だ、深く黒い森が広がっているのだ。
 美汐はその黒い森をぼんやりと眺めながら、今さっきまで顔を合わせていた美坂栞のことを考えていた。
 栞は思ったより元気そうであった。
 元気といっても栞はもともと病気がちなので、一般人のそれとは少し違うのだが、とにかく、具合がよくなったのは確かである。
 あの斬鬼の事件があってから一週間。その間美汐は、毎日仕事のあと栞を見舞いに行った。
 二、三日は横になっていた栞であったが、順調に快復し、すぐに今まで通りの生活はできるようになった。
 今日美汐が訪れたとき、栞は庭で掃き掃除をしていた。
 それを見た美汐は、もう大丈夫なのですかと栞に訊いた。栞は、大丈夫ですと箒を動かしながら微笑んだ。
 そんな栞の様子を見て、美汐は心から喜びと安らぎを感じた。
 何故なら美汐にとって栞は、この凍京で、数少ない心を開ける友人であったのだから。



 列車はかたかたと揺れながら凍京の街を走ってゆく。
 美汐は相変わらず窓の外を眺めていた。
 今はまだ上埜駅を過ぎたあたり。降車駅まではまだ少しある。
 日は傾き、空は真っ赤に染まっていた。
 黄金色の太陽。
 朱色の空。
 そして、その下に広がる茜色に染まった森。
 哀愁を誘うようなその赤色を見たとき、美汐はふと昔のことを思い出した。



 四年前。
 天野美汐はこの国の南端に位置する都、阿南(あなん)都護府に住んでいた。
 阿南では、天野家は誰もが知っている術士の名門であった。美汐の家も、分家ではあったが、やはり術士として生活していた。美汐の父親も母親も優れた術士であり、ともに術官として国に使えていたのだ。
 だから美汐も物心ついたころから、術士としての教育を施された。それは幼い子には厳しい修行の日々であった。
 両親は、子どもを育てるというよりも、術士を育てるといったふうに美汐に接した。例え分家であっても、優れた子を輩出すれば本家と同様と認められる、そんな思いが両親にはあったのだ。だから子育てには、親子の愛情よりも虚栄心の方がより多く注がれた。
 幼少の頃からの詰め込み教育。
 そのかいもあってか、美汐は11歳で国家試験に合格し、12歳で正式な術官に任命されることとなった。異例の若さでの術官就任である。
 赤道幻術課夕師団二級術士。
 それが阿南での美汐の肩書きであった。
 美汐は赤道課に就任してからも、日々己に与えられた責務をきっちりとこなし、己を高めるための修行を怠ることもなかった。それは美汐にとって正しいことであり、また、当たり前のことでもあったのだ。
 安定はしているが単調な、機械の歯車のような、そんな日常。
 しかし、美汐はそんなことに気づくこともな、淡々と毎日を暮らしていた。
 だが、いつまでも変わることがないと思われていた生活は、ある日を境にがらりと変わることとなる。


 ある年の夏。
 都護府の北に広がるものみの丘に、阿南から討伐軍が派遣された。
 それは美汐の父親が提唱したものであった。
「最近、ものみの丘に住む妖怪の一団が力をつけてきたので、こちらが害を被る前に打ち滅ぼす也」
 これが討伐の大義名分であり、これに従って朱雀隊と赤道課で編成された遠征軍が丘へと派遣された。
 この討伐には、美汐も参加することとなった。
 それは美汐が初めて経験した実戦であった。
 都護府内で小さな物の怪を追い払うことはあったが、外へ怪しを討伐に行くことは今まで経験したことがなかったのだ。
 しかし、美汐に緊張はなかった。
 討伐には自分の父親や同僚も参加していたし、それに、今まで赤道課の実務を勤めてきたという自信があったからだ。
 だから美汐は、悪鬼を退治する自分の姿を思い浮かべ、軽い高揚感を覚えながら遠征に参加していた。
 討伐すべき相手は、邪悪な妖狐だと通達されていた。



 その光景は、美汐が想像していたものと全く違うものだった。
 吹き上がる炎。
 逃げまわる妖狐。
 蹂躙する刃。
 累積された死。
 美汐は、自分たちは絶対なる悪と戦っているものだと信じていた。
 光に属する善なるものが、闇より生まれし悪しきものと戦っているのだと。
 しかし、目の前で繰り広げられている光景は、そのようなものではなかった。
 それは、人による一方的な虐殺。
 美汐の前で、また一人の妖狐が凶刃に倒れる――。

 丘に着いたとき、狐たちは普段通りの生活をしていた。
 彼らは人への干渉を最小限に抑えながら、丘の上でひっそりと暮らしていたのだ。
 母狐たちは夕飯の仕度をし、子供の狐は一同に集まって変化の術の練習をする。そのちびたちをにこやかに眺める年老いた狐たち。
 小さいけれど平和な集落。
 そこには、自分たちと何も変わらない日常が存在していた。
 これが、人に害をなすものだろうか。
 美汐がそう思ったとき、集落に矢と炎とが放れた。

 赤く染まる大地。
 それは燃え盛る炎の色か、それとも暮れゆく太陽の影か。
 赤い朱雀隊の鎧。
 赤い赤道課の法衣。
 赤い狐たちの血。
 狂乱の赤。
 変化の術にたけた狐たちの中には、人と同じ姿を有するものもいた。だが、そんなことはおかまいなしに刃は振るわれてゆく。
 その狂気に満ちた空間を、美汐はふらふらとさ迷っていた。
 これは何か。
 これが自分の信じていたものなのか。
 今まで自分が行なってきたことは何であったのか。
 皆が、まるで日常の作業をこなすように狐を屠ってゆく。
 今まで共に仕事をしてきた人間が、信じられないようなことを平然と行う。
 異常だ。
 自分以外は皆おかしい。
 いや、おかしいのはこの空間だ。
 丘全体がおかしいのだ。
 狂った世界に狂った人々がいる。
 いや、狂った世界なんだから、狂った人間がいて当たり前か。
 ならば、狂った世界で狂気を受け入れられない自分が狂っているのか。
 他の人間のように、狂気に慣れることができない自分がおかしいのか。
 慣れる?
 慣れてしまうのだろうか。
 私もいつか、この狂気に染まるのだろうか。
 嫌だ。
 そんなのは嫌だ。
 そんなのは人間じゃない。
 私は――私は人でいたい!

 目の前で、一人の武官が草むらを槍で突ついた。
 途端、中から飛び出してくる数匹の狐。その狐たちを、周りを囲んでいた侍が追いかけながら次々と斬り捨てていった。
 一匹の狐が美汐の方へ走ってきて、その後ろにある草むらの中に飛び込んだ。
 すれ違い様、美汐は見た。その狐がまだほんの小さな子供であることを。
 狐の後を追って、刃を持つものたちが美汐の方へとやってきた。今し方美汐の背後に隠れた小さな命を殲滅するために。
 その刃物の冷たいきらめきを見たとき、美汐は思った。
 いけない――と。
 だから美汐は力を使った。
 男たちが草むらに槍を突き入れようとしたそのとき、狐はいきなりそこから飛び出した。
 男たちは目で狐を追う。
 狐はものすごい速さで丘を走りまわったあと、炎の中に飛び込んで消えた。
 それを見た男たちは矛を収め、美汐の側から離れていった。
 美汐はその後ろ姿を睨みつけながら、自分の背後に隠れている狐だけでも、己の命をかけても守ろうと決意した。
 先ほど丘の上を走りまわった狐は、侍の目をくらますために美汐がつくった幻影だった。
 周囲から人がいなくなったそのあとも、美汐は暫くそこに立ち続けた。
 誰も幼い狐に近づけさせないために。
 やがて、討伐隊の連中が一箇所に集まり始めた。どうやら撤収らしい。
 つまり丘の狐たちは、美汐が守った一匹を除いて皆殺しにされたということだろう。
 なおも立ち続ける美汐の前に、一人の術官がやってきた。
 それは美汐の父だった。
「美汐。討伐は成功だ。これで我が家のお株もあがる。うまくいけば、勲章ぐらいはもらえるかもしれん」
 そう言って豪快に笑ったあと、美汐の父は結集する討伐隊のもとへと歩いていった。
 その父親の衣服は、もとの染料とは違う赤色に染まっていた。



 そのとき以来、美汐が阿南に帰ることはなかった。
 美汐は狐と共に丘から消えた。
 美汐の両親は慌てて美汐を探したが、彼女を発見することはできなかった。
 結局美汐は、討伐の最中に不慮の事故で死んだものとされた。
 その間美汐は、北へ北へと移動をしていた。とにかく阿南の地から離れたかったのである。
 道中、幻術や結界術で金を稼ぎながら妖狐と二人で旅をした。
 妖狐は人言を理解することもできたし、人化の術も心得ていた。どうやら妖狐は、美汐と同じ年頃の女の子らしかった。
 彼女は、自分の名を沢渡真琴とだといったあと、他のことは何も覚えていないと困った顔をした。記憶を失っていたのだ。
 あんなことがあったのだから無理がないだろうと美汐は思う。そして、忘れてしまったのなら、二度と思い出さない方が良いとも思った。
 だから美汐は、山火事の中で倒れているところを助けたと嘘をついた。
 それを聞いた真琴は、美汐に向かって素直にありがとうと言った。
 その言葉を聴いたとき、美汐の胸はずきりと痛んだ。
 それから二人は、住む場所を求めてさらに北へと足を運んだ。
 旅の途中、狐を連れた姿では人目を引くので、美汐は真琴に、人の姿でいるよう頼んだ。それ以来真琴は、人の姿でいることが常態となった。
 真琴は賢い娘だったので、美汐が教える人間の知識をどんどん吸収していった。だが真琴は、美汐以外の人間に慣れることがなかった。
 よくわからないけど、怖い。
 真琴は美汐にそう言った。
 美汐にはその理由がなんとなくわかっていたが、それを真琴に伝えることはなかったし、真琴に人に慣れるよう勧めることもなかった。
 真琴が人と接触することによって、あの日の記憶が蘇ることを怖れたのだ。
 やがて二人は、この国の北端、凍京都護府へとたどり着いた。


 凍京――。
 この国であぶれたものが行きつく場所。
 人と物の吹き溜まり。
 この都にはありとあらゆるものが流れ着き、溢れかえっている。
 農民、商人、技術者、経営者、学者、落ち武者、貴族、開拓者、怪盗、極道、ジゴロ、路肩芸人、芸者、ご隠居、世捨人、僧侶、聖人、悪人、夢追人、神を騙る者、妖かし、闇――。
 そんな有象無象に紛れて、美汐と真琴はもぐりの民間術士としてこの都護府に住みついた。
 できれば術士としての能力は使いたくなかったが、生きていく術を他に知らなかったので、仕方なくこの仕事を選んだ。また、一人で二人を養うことはできなかったので、真琴にも仕事を手伝ってもらった。これらは美汐には、あまり好ましくないことであった。
 仕事を始めてから三ヶ月ぐらい経ったある日、美汐は栞に会った。
 それは、仕事中のことであった。
 その日の仕事は、魃鬼(ばっき)と呼ばれる物の怪をどうにかすることであった。依頼主は土建業者だったと思う。魃鬼はその頃、都護府内を縦横無尽に走りまわっていた物の怪であり、様々な場所にあらわれては方々に甚大な被害を与えていた。依頼主の建築現場はちょうど魃鬼の通り道になっていたため、夜な夜な現場を荒らされいたのだ。このままでは作業が全く進まないので、困った土建業者は民間術士の美汐に魃鬼の退治を依頼した。
 その夜、依頼を受けた美汐と真琴は、建築現場に魃鬼が入れないよう結界を張っていた。
 だが、この仕事には美汐にとって予想外のことが二つあった。
 一つは、魃鬼を追ってる者がいたことである。
 先にも述べたが、魃鬼はこの業者の建築現場だけでなく、都内のいたるところを走り回り破壊活動を行っていた。なので、都護府の方も魃鬼討伐組を派遣していたのだ。
 討伐隊は魃鬼と一戦交える場所として、まだ建物の土台もできていない建築現場を選んだ。まだほとんど更地のここなら、周りに被害を出さずに決着をつけれると踏んだのだ。
 だから現場に魃鬼が現れたとき、美汐はその討伐組とも鉢合わせた。
 美汐は討伐隊を見たとき、すこし苛立ちを覚えた。
 あの阿南での事件があってから、美汐は術官や武官に対して反感を抱いていたからだ。
 また、美汐はもぐりであったので、そのことを理由に拘留され、あれこれと身の上を訊かれるようなことも予想された。そのこともまた美汐を苛つかせる原因となった。
 しかし、このとき美汐が遭遇した討伐組こそが、例の美坂栞とその姉の香里、そしてその友人の北川潤であったので、後から考えると運命的な出会いであったと言えなくもない。
 もう一つ予想外のことがあった。
 魃鬼が強かったのである。
 何しろ都護府が派遣した討伐組が、白道課雪術師団長美坂香里、白道課雪術師団結界士美坂栞、虎王隊副隊長北川潤といった、凍京でも指折りの対霊戦エキスパートであったぐらいだ。
 美汐と真琴の手におえるものではなかった。
 進入を阻止するために張った結界は一瞬で蹴散らされ、建築現場は一転戦場となった。魃鬼、美汐、真琴、栞、香里、北川が入り乱れる。魃鬼との乱戦の間、美汐も真琴も自分の身を守る以外のことは何もできなかった。その圧倒的な力の前に、逃げることすらもできなかったのだ。さらに、まだ力の安定していなかった真琴は、魃鬼の妖気にあてられて、変化の術が維持できずに妖狐の姿に戻ってしまった。
 北川が魃鬼をどうにか取り押さえたとき、美汐は妖狐に戻った真琴を守るように抱きしめながら、自分たちがこれからどうなるのかを漠然と考えていた。
 もぐりで仕事をしていたことを咎められる――そんなことはどうでも良かった。
 重要なのは、彼女たちが真琴をどうするかである。
 もしあのときと同じ惨劇が繰り返されるのなら、例え死んでも真琴を守りきらねばならない。しかし美汐には、魃鬼との死闘で立ちあがる力も残っていなかった。
 香里たちは、美汐の方を見ながら何やら話していた。
 何を相談しているのだろうか?
 嫌な考えが美汐の中に膨れ上がる。
 やがて、三人の中で一番小さな女の子――栞が美汐の方へとやって来た。
 栞は美汐の前に座り込み、じっとその目を見つめる。
 美汐は警戒しながら様子を伺う。自然、真琴を抱く手に力がこもった。
「立てますか?」
 栞はそう美汐に訊いた。
 美汐は答えない。
「立てないんですか?」
 栞が心配そうな顔をする。
 そして振りかえって、姉に向かって言った。
「お姉ちゃん、かなり憔悴してるみたいです。とりあえずうちに連れて行き、休ませてあげましょう」
 その言葉を聴いた香里と北川が、美汐の方へとやってくる。
 そして北川が、無言で美汐を真琴ごと抱き上げた。
「あの、私たちを――」
 ――どうするつもりですか?
 そう美汐が言いきる前に北川が口を開いた。
「なに、別に取って食ったりはしないさ。疲れてるんだろ、ここは美坂たちに甘えた方がいい」
 美汐はその言葉を信用してはいなかったが、だからといって逆らう気力もなかった。
 北川の腕に抱かれたあとも、隙が会ったら逃げようと、北川の様子を上目遣いに窺っていた。
 やがて北川は、香里と栞の後に付いて歩き出した。
 そのどこか心地よい北川の腕の中で、美汐はいつのまにか眠ってしまっていた。



 美汐が美坂家に連れていかれてから一週間。
 その間、特に何があるというふうでもなかった。
 家のものはみな優しかった。憔悴していた美汐と真琴を、まるで家族のように介抱してくれた。
 その暖かさは、美汐が今までの人生で感じたことのないものであった。
 美坂家の人間は、美汐の身の上について尋ねることはあったが、美汐が何もしゃべらないと、それ以上何かを訊くことはなかった。また、真琴が狐であると知ったあとも、特別視することなく普通に接してくれた。
 はじめはすぐにでもここを出ようと考えていた美汐だが、結局一週間ここに居座り続けてしまった。
 居心地が良かったのだ。
 美汐がいままで感じたことがなかったもの――家族が、ここには確かにあった。
 美汐はそれにいつまでも浸っていたかった。
 しかし、ここ美坂の家は白道の家であった。母親、姉、妹の三人が、白道課の術士なのだ。
 術士の一族――美汐の胸には、あの日のことがまだ鮮明に残っていた。
 気を許すことはできない。
 だから美汐は、今日こそはここを出ようと、そう決意した。
「真琴……」
「どうしたの、美汐?」
「今日、ここを出ましょう」
「帰るの?」
「ええ。私たちには、帰るべき家がちゃんとありますから」
「そうだね。あんまりお世話になっちゃいけないもんね」
「それでは、いきましょうか」
「待って美汐。栞さんや香里さんにお礼をいわなくっちゃ」
 美汐は、できれば黙ってここを離れたかったが、それではあまりにも人として不出来であると思いなおし、真琴の言葉に従い香里と栞のもとに挨拶に行くことにした。
 香里と栞のもとを尋ねると、そこには、あの時いたもう一人の男――北川潤も座っていた。偶然香里のもとを訪れていたらしい。
「あの、いろいろありがとうございました」
 美汐は三人に丁寧に頭を下げた。
「美汐さん、帰るのですか?」
 栞は、いつのまにか美汐と真琴を名前で呼ぶようになっていた。
「ええ、お世話になりっぱなしでは、そちらに迷惑がかかりますので」
「迷惑だと思ったら、ここに連れて来たりはしないわ」
 栞の姉、香里が美汐に向かっていった。その言葉に栞も頷く。
「ところで、天野さん――」
「はい」
「――あなた、白道課に入ってみない?」
 香里が美汐に尋ねる。
「いいえ。お断りします。私は、術士として生きていくつもりはありませんので」
 美汐はそういって香里の申し出を断った。
 それは美汐の本音だった。
 美汐は術官にだけは二度となるまいとあの日に誓ったのだ。
「あれ? でも美汐さんって、民間で術士をやってるっていってましたよね」
 栞の素朴な疑問。
「はい、確かに民間術士として生計を立てています。けどそれは、他に能がないからです。できることなら術士以外のことで生きてゆきたいのですが……」
 これも本音であった。他に技術がないから、仕方なく術で食べているのだ。
「そうですか。何か複雑な事情があるんですね」
 栞はそういって腕を組んだ。
「なぁ、天野さん――」
 今度は北川が美汐に話しかけた。
「――術士以外の仕事がしたいんだろ。それだったら、公務員になってみたらどうだ?」
「公務員――ですか?」
「うん。この凍京の街は、どん詰まりにあるせいもあってな、公務員になろうっていうタイプの人間がどーも少ないんだ。だから人手不足で困ってる。そうだったよな、香里――」
 北川の問いに、香里は「そうね」と答える。
「私の父が――公務員をやっているのだけど、よく人手が足りないと嘆いているわ。仕事としては、この雑多な街を纏め上げていけないのだから大変だろうけど、その分収入も良いし、安定もしてる。結構お勧めの業種かもね」
 美汐は香里の説明を聴きながら、なぜこの人たちはこんなにも親切にしてくれるのだろうかと思った。
 何か、裏があるのだろうか?
「美汐、公務員になっちゃえば」
 真琴が明るい声で言う。
「そうです、それがいいですよ」
 栞も真琴の言葉に同意した。
「そうですか。考えておきます……」
 美汐はとりあえずそう答えた。
 確かに、魅力的な話ではある。真琴のためにも、安定した生活というものは望ましかったし、それに公務員ならば、術官や武官に対しての歯止めとなることができるかもしれない。
「ところで、真琴さん――」
 栞が、今度は真琴に声をかけた。
「――真琴さんは、妖狐なんですよね」
 その栞の言葉を聴いて、美汐は「来た」と思った。何が来たのかは美汐にもよくわからない。ただそのときはそう思った。そして、何かを怖れた。
「うん。あたしは妖狐よ」
「そうなると、普通とは違う病なんかにかかることがあるかもしれませんね。もしそうなったら、そのときは是非うちに来て下さい。助けになれるかもしれないので」
 栞の言葉は、美汐が想像していたものとだいぶ違っていた。
「実は私、小さい頃からしょっちゅう病気をしているんです。それも、普通じゃない病気に。それでですね、そうやって闘病生活しているうちに、そこらのお医者さんよりも病気に詳しくなっちゃったんです。ですから、真琴さんが病気になったとき、下手なお医者さんよりも適切な治療ができると思うんですよね。特に、霊症や呪の類は」
「それ、真琴が病気になったら診てくれるってこと?」
「はい。そうです」
「大丈夫よ。真琴は元気だから、病気なんて絶対にかからないわ」
「えうー。それはうらやましいです」
 二人のやりとりを聴きながら美汐は思った。
 私は今、何を怖れたのだろうか。
 私は、栞が真琴に対して何か害を与えるようなことを言うと思ったのだろうか。
 妖狐と人とを差別するような言葉を――。
 そう思ったは確かだ。しかし、それだけではない。
 私は、栞が真琴と会話することによって、真琴の記憶が戻ることを怖れたのではないか。
 けどそれは、真琴のため。
 真琴が辛い思いをしないため。
 ――否。
 真琴のためというのは嘘ではないが、それだけが怖れの理由ではない。
 私は、あの日のことを――私たちがしたことを真琴に知られるのを怖れたのではないか。
 知ることによって、真琴が私を見る目が変わるのを怖れている。
 真琴が私を軽蔑するのを怖れている。
 私は、自分を守ろうとしている。
 だから己の保身のために、秘密を全て飲み込んで、何食わぬ顔で真琴と接している。
 真琴を騙している。
 なんて、卑怯な人間――。
「美汐さん、どうしたんですか?」
 うつむいてしまった美汐に、栞が心配そうに声をかけた。
 裏も表もない、心の奥底から出たそのままの言葉。
 それが美汐にじんわりと伝わる。
 そのとき美汐は気付いた。
 栞は――。
 いや、栞だけではない。
 香里も北川も、そして真琴も。
 皆、裏というものがない人間なのだ。
 全くないわけではない。人である以上どうしても裏表がある。
 彼女らは、それを意図的に隠そうとしないのだ。
 自分の心にしたがって、生の感情で生きている。
 楽しいと思えば笑うし、悲しいと思えば泣く。
 そして、人に優しくしたいと思えば、優しくする。
 ――どうしてあなたたちはそんなに優しいのですか。
 美汐は心の中で栞に問いかける。
 あなたたちと私には何の関係もないはず。
 ただ、偶然出会っただけ。
 そんな見ず知らずの私に。
 己の保身のために、傍らにいる人を騙している私に。
 そんな私に、どうして――。
「どうして、あなたたちはそんなに優しくしてくれるのですか?」
 美汐の掠れるような声。
「美汐さんが、友達だからですよ」
 栞はにこやかに微笑みながら、そう言った。

 ――友達
 栞はそう言った。
 出会ったばかりの私に向かってそう言ってくれた。
 私のことを友達――信じる事のできる人だと言ってくれた。
「あうー、真琴は?」
 美汐の隣で真琴が尋ねる。
「真琴さんも、友達です」
「そうよね、真琴も友達よね」
 はじけるような笑顔の真琴。
 人と話すのをあんなに怖がっていた真琴が、こんなに楽しそうに。
「真琴も、栞も、美汐も、みんな友達よね」
 友達――。
 真琴も栞も、こんなにも自分を信じてくれている。
 そうか。
 彼女たちに裏がないのは、人を信じているからだ。だから何も隠すことなく、あるがままの自分を表現することができるのだ。
 それに比べて私は。
 私は人を信じているだろうか。
 私は真琴を信じていただろうか。
 私は真琴に真実を伝えていない。
 それは、私が真琴を信じていないからではないのか。
 真琴のためと言いながら、結局真琴のことを信じていなかったのではないか。
 私は。
 いつのまにか私は。
 あの日から、人を信じなくなっていた――。

「美汐っ!どうしたのっ!」
 驚きの声をあげる真琴。
 栞や香里も美汐を心配そうに見つめる。
 美汐はその場に泣き崩れていた。


 それから美汐は、自分の身の上を洗いざらい四人に話した。
 今まで内側に溜まり、淀みきっていたものを、涙と共に全て外へと吐き出したのだ。
 四人は黙って美汐の話を聴いた。
 真琴は美汐の話を聞き終わったあと、一言「話してくれてありがとう」と言った。
 それを聴いて美汐は、救われたような気がした。
 そして美汐は本当の友達を手に入れた。
 それ以来、美汐、真琴と、栞、香里、北川の関係が続いている。
 栞と真琴は、今でも美汐の大の親友であった。
 もっとも北川とは、あの日に別れてからあの斬鬼の事件があるまで、ほとんど会うことはなかったのだが。




「須賀喪(すがも)〜、須賀喪〜」
 いつのまにか降車駅に到着していた。
 美汐は荷物を持って列車を降りる。定期を提示しながら改札を抜け、暗くなったあぜ道を自宅へと向かった。
 空には太った月がぽっかりと浮かび、道を淡い光で照らしている。
 美汐の家は、刺抜き地蔵通りから少し道を入ったところにある小さなアパートだ。真琴と二人で協力しながらひっそりと暮らしている。
 二人の賃金をあわせればもっと都心に近い賑やかなところが借りれるのだが、それはどうも落ち着かないと、この静謐な土地を住みかに選んだ。
 結局二人ともあのときの傷が完全に癒えたわけではないのだ。
 だからあまり沢山の人と振れあうことのない、それでいて仕事場からそう遠くないこの地を住居としたのである。
 ぽつぽつと灯る街灯の下を、美汐は少し急ぎ足で歩いた。
 あんなことを思い出したからであろうか、なんとなく真琴の顔を見たくなったのだ。
 布団屋のわき道に入り、二つ目の角を右に折れる。それから幾ばくか畑の脇を歩くと、やがて見なれた小さなアパートが見えてきた。
 一階角にある自室。その窓には明かりが灯っている。小さく開けられた台所の窓からは、もうもうと水蒸気が立ち上っていた。
 今日も真琴が夕食を作ってくれているのですね。
 そんなことを考えながら玄関に近づいた美汐は、何か違和感を感じて、はたとその足を止めた。
 二階に上る階段の脇。
 そこに何かがいるのだ。
 月は出ているが、周囲に鬱蒼と木が茂っている階段付近は暗い。
 真の闇である。
 影と陰の境がどこにあるのかがわからない。
 美汐はじっと目を凝らす。
 何も見えない。
 しかし、そこには確かに何かがいる――。
「待ちくたびれたぞ」
 闇がしゃべった。
「こんなに遅くまで働いてるのか。感心だなぁ」
 陰が膨張する。
 そしてそれは、美汐の前で人の形となった。
「どうして、あなたがここにいるのですか――」
 美汐はうめくように言う。
 確か、この場所を教えた記憶はない。
「二人と話がしたくってさ」
 陰は――相沢祐一は、月明かりに照らされながらそう言った。


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