第八章 「沢渡真琴」



 沢渡真琴は自宅で夕食を作っていた。
 細く刻んだ大根と人参、薄く切ったジャガイモを、カツオダシをとったお湯で煮る。
 ひとしきり煮たあと火を止め、その中にお玉ですくった味噌を溶かし込む。
 味噌がよく溶けたのを確認してから、小皿に一口とって味見をする。
「うん。ちょっと味が濃いけど、このくらいがちょうどいいわね」
 満足そうにうなずいてから、真琴はお玉を一度くるんとまわした。
 真琴は元来、味の濃いものが好きであった。
 しかし一緒に暮らしている美汐が、塩分の取り過ぎは体に悪いと言って薄味の料理をこしらえるのだ。
 真琴は、美汐の料理は大好きであったが、味の濃さという点では少々不満を抱いていた。
「だいたい、美汐はおばさんっぽいのよ。お肉はよくないって魚料理ばかりだし、お菓子も甘いものは虫歯になるって言って滅多に買ってこないし。そのくせ、佃煮とか粕漬けとか、そんなもんばっかり買ってきて――」
 真琴はぶつぶつと呟きながら、先程の味噌汁に水で戻したワカメを入れる。
 これであとは、美汐が帰ってきてから酒と醤油で漬けたカジキの切り身を焼けば、本日の夕食は完成である。
 ――もうそろそろ帰ってくるころね。
 そんなことを考えながら切り身の漬かり具合を確かめていると、玄関の扉を開ける音が真琴の耳に聞こえてきた。



「ただいま帰りました」
 美汐が言った。
「お帰り、美汐」
 真琴が明るい声で返す。
「おじゃまするよ」
 美汐の後ろに立っていた男が言った。
「あうっ!?」
 その男を見て真琴の動きが止まった。
 今まで、美汐が誰かを家に連れて来ることなどなかった。もちろん、真琴もない。
 だから、他人がこの家を訪れるのははじめてのことであった。
 突然のことで真琴は少し混乱する。
「やぁ、真琴。元気か?」
 男は真琴のことを知っているようだった。
 しかし、真琴にはその男に覚えがない。
「だ…れ?」
 真琴は、美汐の後ろに体を半分隠しながら男を見上げた。
「そういやぁ、あんとき真琴は気を失ってたんだっけ」
 男が美汐に助けを求めるような視線を向ける。
 それを感じとって、美汐が真琴に男を紹介した。
「真琴、この方は相沢祐一さんです。この前、真琴と栞さんを救ってくれた人ですよ」
 美汐の言葉を聴いた後、真琴は祐一の顔をまじまじと見つめた。




「それで、話とはなんですか?」
 食事が済んでから、美汐が祐一にそう切り出した。
 三人は部屋の中央に置かれたちゃぶ台を囲んでいる。
 夕食は真琴と美汐だけが食べた。
 美汐は祐一にも勧めたのだが、祐一は「もう食べてきた」と言ってそれを断った。
 真琴と美汐が食べているあいだ、祐一は出されたお茶を飲みながら、二人のことをじっと見つめていた。
 その間真琴は、真琴にしては珍しく、あまり嫌な気持ちにはならなかった。
 普段なら、知らない人間が見ている前での食事など絶対に考えられないのだが。
「話というのは、真琴についてのことなんだが――」
 祐一はそこで一端言葉を止め、湯呑に残っていたお茶を飲み干した。
 すぐさま美汐がお代わりを問う。
 それに対して祐一は無言で湯呑を差し出した。
 美汐が新しいお茶を淹れる。
 祐一は、淹れたばかりの熱いお茶を一口飲んでから、真琴の顔をじっと見つめた。
 真琴が僅かに視線を逸らす。
「真琴は妖狐だ――」
 祐一がいきなり言った。
 その言葉を聴いて、真琴が少し身構える。
 美汐も眉間にしわを寄せて祐一を睨んだ。
「二人とも、そんな怖い顔すんな。別に俺が真琴をどうこうしようってんじゃない」
 祐一が軽い口調で言った。
 もし他の人間が同じことを言っても、真琴は警戒を解かなかっただろう。
 しかし、真琴には何故か、その祐一の口調が信じられた。
 真琴の警戒が少し緩む。
 真琴が少し落ち着いたのを感じ取ってから、祐一が再び語り出した。


「問題なのはな、俺じゃなくて斬鬼の方だ」
 斬鬼――。
 その言葉は、真琴の心に重く響いた。
 美坂邸での記憶が真琴の中に蘇る。
 苦しんでいる親友。
 自分の体に憑こうとする何か。
 そして、体内で暴れる力の塊――。
「それはつまり、斬鬼が真琴を狙っていると――」
 美汐の問いに、祐一はその通りだと答えた。
「あの時も、帰り際にいってましたよね。真琴は狙われるかもしれないって――」
 美汐は少し考える。
「斬鬼が真琴を狙っているというのは、その例の、真琴の中に切り捨てた自分の尻尾を、斬鬼が取り戻そうとしているということですか?」
 美汐が真琴のことを心配そうな瞳で見つめた。
 美坂邸での事件のとき、斬鬼は真琴に取り憑こうとして、逆に真琴に吸収されそうになった。半ば吸収されかかった斬鬼は、吸収されつつある部分だけを真琴の中に切り離し、なんとか真琴の体内から外に出たのだ。
 真琴の中に残った斬鬼の欠片は、しばらくは吸収されないよう抵抗し真琴を苦しめたが、一日も経つと、真琴に完全に霊力を吸い尽くされ消えてしまった。
 実際、あの事件以来、真琴の霊力は増えた。
 ――真琴の中に残していったもの?
 真琴は自分の手をじっと見つめ、自分の中にうねっているかもしれない得体のしれない力のことを想像した。
 背筋に寒気がはしる。
 急に不安になった真琴は、向かいに座っている祐一の目を見つめた。
 祐一の目は、遠くを見ているようであり、また、近くを見ているようでもあった。
 とらえることができない――。
 そんな印象を人に与える瞳だ。
「斬鬼の尻尾なんて、もう残ってないよ」
 優しい口調で、祐一が真琴に言った。
 真琴の心が少し軽くなる。
「霊力は食うか食われるかだ。食われたら、そこで終わりさ。斬鬼が落としていった霊力は、そっくりそのまま真琴の霊力になったんだ」
「食われたら、終わり?」
「そうだ。食事と同じで、一度飲み込まれたらそれで終わりなんだ。一度食べた料理が、もとの料理に戻ることはないだろ。さっき、真琴が食べた夕食は、やがて真琴の血となり肉となる。しかし、もとの米や味噌汁やカジキに戻ることはない。それと同じなんだ」
「ご飯……」
 真琴は流し台に目をやる。
 そこには、空になった食器が丁寧に積まれていた。
 ご飯を食べるのと霊力を得るのは同じ――。
 そのとき、一つの考えが真琴の脳裏に浮かんだ。
 それは、とても恐ろしい考えだった。
 そのあまりの恐ろしさに真琴の全身に鳥肌がはしる。
「どうしたのですか、真琴?」
 突然顔を青くした真琴に、美汐が心配そうに声をかけた。
「大丈夫、美汐。ちょっと、怖いことを考えちゃって――」
 真琴は、美汐に心配かけないよう無理に笑顔をつくろうとする。だがそれは、思うよう上手くできなかった。
「祐一……」
 真琴がか細い声で祐一に話しかけた。
「なんだ?」
「あう……、その……」
 言葉にするのが躊躇われる。しかし、勇気を出して真琴は訊いた。
「食事……、なの?」
「そうだ」
 祐一が即答した。
 それを聴いて、真琴がぶるっと震えた。
「なにが――ですか?」
 美汐が首を傾げる。
「美汐、それに真琴。覚悟して聴いてくれ」
 祐一の言葉に、二人は恐る恐る頷いた。
「斬鬼は人を斬る。それは、霊力を食べるためなんだ」
「食べる――ですか?」
「斬鬼が斬ることに喜びを感じ、人を斬りつづけるのは、霊力を食べるのが好きで、より上手い霊力を味わいたいがためだ。人間でもいるだろ、食べる喜びに目覚めてる奴って」
「そんなことのために、人を……。人の命を!」
「奴にとっちゃ、人の命なんか関係ない。味の良い霊力が得られればそれでいいんだ。そのために人を斬るし、人を斬るのにより適した肉体に憑く」
「味の良い霊力――!?」
 その言葉を発した瞬間、美汐の中に嫌な考えが浮かんだ。
「――それは、霊力と霊質がともに優れているということですか」
「そうだ」
 考えが現実味を帯びる。
「それじゃぁ――斬鬼が真琴を狙うのはっ!」
 美汐の呼吸が荒くなる。
「狙うのはっ――」
 その先が言葉にならない。
 言いたくない。
 信じたくない。
 口を開けたままの美汐に代わって、祐一が言葉の続きをすらりと言い放った。
「真琴が妖狐だからだ。奴は妖狐の体と霊力を狙っている」
 真琴と美汐の背筋に、ぞわっと寒気がはしった。


「奴は、人間でいえば、美食家だ。より霊力が高く、霊質の良いものを襲っている」
 祐一が人事のように語り出す。
「あの事件の日、奴は真琴に吸収されそうになった。そのときは逃げることで必死だったが、あとで思ったはずだ。あの霊力は、ご馳走だと」
「でも――」
 美汐が震える声で言う。
「でも、真琴の霊力の方が強くて、斬鬼は手が出せなかったんですよね。それなら、真琴は安全なのでは――」
「あの時点では、確かに真琴の霊力の方が上だった。だが、この先もそうとは限らない。奴は闇の者だ。その刃で人を斬り霊力を吸収し、己の力と変えていくことができる」
「それじゃあ、そのうち、斬鬼の霊力が――」
「奴は今、物凄い勢いで人を斬っている。それも、今までは手を出さなかったような、霊力の低い人間も幾人かぶった斬ってる。まるで、出会った人間全てを斬っているようだ。この行動は、明かに食事を楽しむことよりも霊力を増すことを目的としている」
「それは、真琴を――」
 真琴が震える唇を動かした。
「真琴を、食べる、ため、に?」
 真琴の声は掠れていた。
 その声は、まるで他人の声のように真琴の中に虚ろに響いた。
 頭の中を声がいつまでも木霊する。
 やがてそれは耳鳴りへと変わる。
 意識が遠くなる。
 意識と体が離れてゆく。
 目の前がゆらめいている。
 ゆらゆらとゆらめいている。
 ゆらゆらと。
 ゆらゆらと。
 ゆら――。


「真琴っ!」
 美汐に呼び止められて、真琴は自分の体が傾いでいることに気付いた。
 倒れそうになっているところを美汐が支えてくれているのだ。
 触れあう美汐の体からトクトクと鼓動が伝わってきた。
 その生命の奏でる振動に真琴は暖かな心地よさを感じた。
「相沢さん、なんて話を――」
 美汐が非難の目を祐一に向けた。
「だから言ったろ、覚悟して聴けって」
 祐一は美汐の視線を真っ直ぐに見つめ返す。
 その目は、ただ、美汐の姿を映しているだけ。そこからは、感情を汲み取ることができない――。
「どうせ知らなきゃいけないことだ。だったら、はやく知っといた方がいい」
 祐一の言葉を聴いて、それもそうだろうと真琴は思った。
 今知ろうが後で知ろうが、受けるショックはそんなに変わらなかっただろう。
 だが、美汐はそうは思わなかったらしい。美汐の目はまだ祐一を睨んでいた。
「もう少し、配慮というものがあってもよいのではないですか?」
「そんなものは、何の役にもたたんよ」
 すばっと言いきる祐一に美汐が押し黙る。
「美汐、俺を睨んだって何も解決しないぞ。それより今やらなきゃいけないのはな――」
 祐一が視線を美汐から真琴に移す。
「真琴を守ることだ」
 祐一の言葉に、美汐ははっとして無言で頷いた。


「一番良いのは、白道課に保護を求めることだ」
 祐一がちゃぶ台に肘をつきながら言った。
「虎王隊に保護を求める方が良いのではないですか?」
「確かに、その方が良いように思える。けどな、虎王隊だけじゃダメなんだ」
「何故です?」
「斬鬼は素早い。それに闇によく溶けこむ。霊力の探知に優れたものがいなければ、この凍京の街で奴を探し出すのは難しい。今、虎王隊は、斬鬼のことを躍起になって探しているが、凍京は深い。虎王隊だけでは奴を見つけ出すことはできないだろう」
「虎王隊は、白道課に協力を要請していないのですか?」
「していない。どうやら、引越し中の白道に対して遠慮してるみたいだ。そりゃぁ、確かに白道はドタバタしてるがな、相手が相手なんだから、協力を求めるべきだろうに」
「配慮しているんですよ」
「そんなものは何の役にもたたん」
 先程と同じ祐一の言葉に、美汐が少しむっとする。しかし祐一は、そんなことにはおかまいなしに言葉を続けた。
「今のままでは、虎王隊は斬鬼を捕らえることができない。かといって白道に協力を求める様子もない。だから真琴が白道に保護を求めるんだ。そうすれば、白道が虎王隊に協力を要請することとなる。これなら、すんなりと白道と虎王隊の連携ができる。そうなれば、斬鬼も追い詰められて、裏から表にあぶり出されることとなろう」
「真琴は橋渡しですか?」
「そうともいえる」
「なんか、道具のようで、嫌な感じもしますが……」
「けど、守ってもらわなきゃしょうがないだろ。これが、誰にも一番良い方法なんだよ」
「そう――ですね」
 少し釈然としないものを感じながらも、美汐は祐一の言葉に同意した。


 話を終えた後祐一はふらりと立ちあがって玄関へと歩き出した。
 美汐も立ちあがる。しかし、祐一にかける言葉が見つからない。
 美汐が呆然と突っ立ている前で、祐一は「じゃあな」と言って外へ出ていってしまった。
 真琴は祐一が出ていった後も、玄関の扉をじっと見つめていた。
 さっきまで部屋にいた男のことを考えてみる。
 どうにもよくわからない男だった。
 とにかく、何を考えているのかがわからない。
 別に、意図的に何かを隠しているような様子はない。
 祐一の吐く言葉は、そのまま祐一の本心を表しているようだった。
 裏表がない――それが真琴の感想である。
 にもかかわらず、何を考えているのかがわからないのだ。
 おそらく、必要最低限なことしかいわないのでそう感じられるのだろう。
「ふぅっ」
 美汐がため息をつきながら腰を下ろした。
 こういうところがおばさんくさいと真琴は思う。
 美汐は、祐一のことをよくは思っていないようだった。
 少し機嫌が悪いのが真琴にも伝わってくる。
 しかし真琴は、むしろ祐一に好感を持っていた。
 どこか自分と似ているような気がしたのだ。
 だから、なんとなくこんな言葉を呟いた。
「祐一って、いい人ね」
 その言葉を聴いた美汐は、驚きの表情を浮かべながら真琴の顔を凝視した。



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