第九章 「虎王隊」



 その日、川澄舞は佐倉田門にある虎王隊の隊長室で朝から書類とにらみ合っていた。
 目の前の机には山のように書類が積まれている。最近、都内での事件が多く、報告書の類が大量に舞のもとにあがってくるのだ。
 書類はほとんどが殺傷事件に関するものであった。犯人不明のものが多い。だが舞には、そのほとんどが斬鬼によるものであろうという確信が持てていた。
「動きが活発になってきている――」
 舞は書類の束をクリップで留めた後、壁に掛けてあるカレンダーに目をやった。
 そのカレンダーには、日付と曜日の他に月齢が書き込まれている。
「もうすぐ、半月――」
 舞は意識を自分の内側に集中させ己の霊力を量ってみた。
「まだ、そんなに弱くはなっていないけど……」
 霊力は満月時に比べると少し弱くなっていた。月が細くなってきているせいだ。
 一般的に、霊力というものは多かれ少なかれ月の影響を受けるものであった。それは、人であろうと妖物であろうと変わりない。ただ、光の影響については個人差があった。
 光が強い――満月に近い――とき程霊力が高まるものがいる一方で、光が弱い――新月に近い――ときの方が霊力が高まるものがいる。例えば、舞は前者の人間であり、白道課の美坂香里などは後者の人間であった。
 また、月齢の影響は、その効果にも個人差があった。霊の総合力が月に極端に左右されるものもいれば、感が少し鈍る程度ですむものもいる。副隊長の北川潤のように、月齢の影響を全く受けない人間も中にはいた。
「月齢と斬鬼……」
 舞は、巷を騒がしている妖物について思考を巡らした。
 近頃、斬鬼によるものと思われる事件が多い。
 特に、5日前の満月を境にその数は増加している。
 ――斬鬼は月が消えたとき、その妖力を最大限に発揮する。
 それが舞が出した答えであり、それゆえに、先ほど舞は月齢を気にした。
「なんとか、新月の前に決着をつけたい……」
舞は部屋の隅の小窓から空を見上げた。
外は既に日が落ちて暗くなっていたが、あいにくその窓からは月を確認することはできなかった。


 
 ――夕食にしよう。
 そう思って舞が隊長室を出たのは午後6時半ごろであった。
 廊下に出てすぐに、舞は署内の雰囲気が少しざわついているのに気づいた。
 ――何かあった。
 直感的にそう感じた舞は、目的地を食堂から玄関ホールへと変えた。
 ホールには隊員が10人程いた。みんなどこか浮き足立っている。
 舞は近くにいた隊員を捕まえて声をかけた。
「何かあったの?」
「あ、隊長――」
声をかけられた隊員が敬礼をする。
「何かあったの?」
もう一度同じことを訊く。
「斬鬼が出たそうです」
隊員は少し興奮しながら答えた。
「どこに?」
「赤酒(あかさか)の方に。己組が遭遇したみたいで。今さっき、副組長って人が来て……」
 そのとき、誰かが舞を呼んだ。
 舞と隊員は声の方へ顔を向ける。
「隊長っ!」
 巡回用の武装をした隊員が舞の方へと走ってきた。左腕に青い布を巻いていることから、その隊員が副組長であることがわかる。
「河辺……」
舞がその副組長に声をかけた。
「探しました。隊長室の方にいなかったから」
河辺副組長が息を切らせながら言葉を吐き出す。
「ごめん」
舞は軽く頭を下げた。
「いえいえ……」
河辺が慌てて手を振る。それからすぐに真剣な顔をして舞に話しかけた。
「斬鬼です」
「赤酒に?」
「知ってたんで?」
「今、彼に訊いた」
舞が傍らの隊員を指差す。
「なら、話がはやいです。今、己組と総武組が包囲しながら追ってます」
「総武もいるの?」
舞がちょっと驚きながら尋ねる。
「はい。ちょうどうちと総武組が合流したところで奴に出くわしたんです。運が良かったというべきなんでしょうかねぇ」
 ――総武組。
 それは、虎王隊が対斬鬼用に組織した特殊捜査組のことである。
 各組の中から剣技に優れたものを集めたエキスパート部隊であり、隊の組織から独立した権限と行動力が与えられている。捜査目的はもちろん斬鬼の殲滅であり、その為に日々帝都内の各組と協力しながら斬鬼の足取りを追っていた。隊長を務めているのは元壬組の月宮あゆである。
「それでですね」
 河辺が言葉を続ける。
「今、こっちの方へ追いこんでるんです」
「こっち?」
 舞が尋ねる。
「ここです」
 そう言って河辺が指を下に向けた。
「ここなら、腕利きが揃ってますから」
「確かに……」
 舞は少し考えた後、傍らの隊員に向かっていった。
「君、甲組?」
「はい。甲です」
「じゃあ、三鷹に連絡を伝えて。組員全員第一種装備で署の前に待機」
「はい。組長に伝令。組員全員第一種装備で署の前に――、だ、第一種ですか!?」
「そう。おそらく、ここの前で戦闘になる」
「わ、わかりました」
 甲組の隊員は、舞と河辺に敬礼をしたあと、奥へ続く廊下へと走っていった。
「甲組だけじゃちょっと心もとないか――。河辺」
「はい」
「悪いけど、神陀の辛組を呼びに行ってくれる?」
「今からですか?間に合いますかね」
「わからない。けど、もし間に合えば、それにこしたことはない」
「わかりました。なるべく急ぎます。すみませんが、荷物ここに置きっぱにします」
 河辺はその場で少し装備を外し、勢いよく外へと飛び出していった。
「斬鬼がくる――か」
 舞はゆっくりと玄関へと向かう。外に出てみると頭上に月がぽっかりと浮かんでいた。半月に近い月は、淡い光を大地へと投げかけている。
「むしろ、今がチャンスかもしれない。こちらが有利なうちに決着を付けれれば……」
 月の光の中に舞が立っている。
 背後には虎王隊の本部。そのさらに後ろには黒い江渡の森。
 周囲にガス灯はあるが、その明かりが届かないところには闇が広がっている。
 月の光を受けた、青い闇。
 その闇の中を、悪鬼がこちらへと向かっている。
 舞は腰に差した刀の鞘を、知らず知らずのうちにきつく握り締めていた。



 蒼山(あおやま)通りの赤酒から佐倉田門の間、ちょうど永多町(ながたちょう)の辺り。
 そこを今、斬鬼が佐倉田門方面に向かって疾走し、さらにそれを虎王隊が包囲しながら追っていた。
「右側に取り付いてる総武! あまり近づき過ぎるなっ! 斬られるぞっ!」
 虎王隊の副隊長、北川潤が叫んだ。
「次の交差点で小路町(こうじまち)の方に行かせないよう、青梅君、左の方から圧力をかけてっ!」
 対斬鬼特捜組『総武』の組長月宮あゆが、隣を走っていた元同僚の総武副組長、青梅敏晴に向かって指示を出す。
 青梅は軽く頷いたあと、スピードをあげ、斬鬼の左側を包囲している己組の元へと走っていった。
「いい判断だ」
 一緒に後方から斬鬼を追っている北川は、あゆのことをそう評価した。
 前方に交差点が見えてきた。左に行けば小路町。右に曲がれば芯橋(しんばし)。直進すれば佐倉田門に抜ける。己組の何人かが斬鬼との間合いを詰めた。斬鬼はそれを嫌って十字路を直進する。斬鬼の進路は、ほぼ佐倉田門方面へと固定された。
「このままいけば、署の前で挟み撃ちにできるね」
 あゆがそう判断した瞬間、斬鬼が急激に加速した。



「来た!」
 斬鬼の妖気を鋭敏に感じ取った舞は、すぐさま署の前で待機している甲組に指示を飛ばした。
 甲組が布陣を整える。署の前に舞を中心とした半円ができあがった。
 舞は、己だけで斬鬼と決着をつけるつもりで一人円の中心に立っていた。
 斬鬼に対しては、ほとんどの隊員は刃が立たないと判断したからだ。それに、今の斬鬼を他の隊員に斬らせることも舞は嫌った。
まだ斬鬼の姿は見えなかった。だが黒い妖気はどんどん膨れ上がってくる。遠くから漂ってくるその妖気が舞にプレッシャーを与える。
 舞はそれに対抗するように、精神を集中させ、己の中の霊力を限界まで高めた。
 ――心を鬼にしなければ。
 舞が刀を抜く。
 刃が月光に煌く。
 隊員達が息をのむ。
 黒い妖気が吹き付けてくる。
 淀む空気。
 漂う邪気。
 前方から膨らんでくる闇。
 斬鬼は突風のように署の前に飛び出してきた。


「高尾……」
 舞は斬鬼の顔を見て顔を歪めた。
 なぜなら斬鬼のその体は、元虎王隊戊組の高尾俊輔のものであったから。
 それはまわりにいる甲組の隊員も同じであった。
「ちっ……」
 斬鬼は立ち止まって周囲を見渡した。
 斬り蓄えた霊力を脚力に変え、自分を追っていた連中を一気に振り切ったと思ったら、今度は同じような連中が自分を待ち伏せしていたのだ。
 ――こうなったら、道を斬り開くしかない。
 そう判断したのだろうか、斬鬼が手にぶら下げていた刀を両手で構えた。
 隊員達に緊張がはしる。
 舞は一度目を閉じ、心の中で高尾の冥福を祈ったあと、風のように斬鬼に向かって突進した。


 甲組の隊員は、舞と斬鬼の斬り合いを周囲からじっと見つめていた。
 舞から手を出すなとの指示があったからだ。
 だが、例え指示がなかったとしても彼らには手を出すことはできなかっただろう。
 レベルが違うのだ。
 高尾の体をのっとった斬鬼の技量は凄まじく、とても人間の体とは思えない動きで剣を振るってくる。
 だが、それと対峙している舞はさらにその上をいっていた。
 斬撃を悉く防ぎながら斬鬼を追い詰めていく。
 致命傷ではないが、幾つもの切り傷が斬鬼の体に刻まれる。
 だが、見た目ほど舞に余裕があるわけではなかった。
 斬鬼は斬りながら相手の霊力を奪う。つまり、少しでも掠られたら、そこから霊力を奪われ、あっという間に立場が逆転してしまう。
 だから舞は速攻で勝負をつけようとしたのだが、斬鬼はそれを何とかしのいでいた。
 ――ちっ!
 舞は心の中で舌打ちした。
 今は舞の戦闘力の方が優れている。だが、長期戦になったら、掠られることも許されない舞の方が圧倒的に不利になる。
 それに、斬鬼には――。
「せいっ!」
 舞が刀を横に払う。
 斬鬼はそれを後ろに飛んでよけ、その場でくるりと舞に背を向けた。
「しまった!」
 舞がもう一歩踏み込みながら斬撃を放つ。
 しかし、それより速く斬鬼が大地を蹴った。
 斬鬼には、舞と戦う必要がなかったのだ。
 だから、敵わないと思った瞬間、斬鬼はその場から逃げ出した。
「逃がさないっ!」
 慌てて舞が追う。が、斬鬼はすでに大分先にいる。
 周囲にいた甲組の隊員が斬鬼の前に立ちはだかる。
「行かせんっ!」
 隊員が刀を振るう。
 しかし斬鬼はそれをするりと避け、すれ違い様一人の隊員の足を斬りつける。足を斬られた隊員はたまらずその場にひざまづく。
 斬鬼はいとも簡単に包囲網を突破してしまった。
「くそっ!」
 甲組の隊員が何人か斬鬼を追う。
 そのとき、斬鬼の前方から人が何人か駆けて来た。
「いたぞっ! 斬鬼だっ!」
 一人が笛を吹き、他のものは抜刀する。
 彼らは、先ほど赤酒から斬鬼を追っていた総武組と己組であった。
「今度は逃がさんっ!」
 三人がかりで斬鬼に斬りかかる。だが、斬鬼はそれをすべて受け止める。
 そこへ、後ろから追っていた甲組の隊員が刀を振るう。
 斬鬼はとっさに姿勢を低くし、隊員たちの足元を掬った。
 足を斬られた隊員がその場へ転がる。
 斬鬼は、人間では到底できないような低姿勢で隊員達に斬りかかってゆく。
 地を這うような一撃に隊員達は悉く足をとられてゆく。
 斬られなくても、掠られただけでどっと力を据われ、その場に立っていられなくなる。
 その場にいたものが、みな大地へと倒れ伏す。
 そこへ舞が追いつた。
 しかし斬鬼は、たった今吸った力を全て脚力にあて、再び闇に向かって疾走する。
 舞と斬鬼の距離はみるみる広がる。
 ときどき総武や己組の隊員が止めに入るが、彼らでは斬鬼の足止めにもならない。
「このまま逃げられるっ!」
 舞がそう思った瞬間、前方で斬鬼の足が止まった。
 江渡の森へと続く佐倉田門橋の前。
 そこで誰かが斬鬼と刃を交えていた。
 斬鬼の足を止めたのは、北川であった。
「ここであったがっ!」
 北川が剣を振るう。
 斬鬼はそれを受け流しながら北川の隙を伺う。
「これが、最後のチャンスッ!」
 舞が背後から斬鬼に斬りかかった。
 同時に北川が刀を振るう。
 斬鬼は右手の刀で北川の一撃を弾きながら、左腕を舞に向かって突き出した。
 重い手ごたえ。
 斬鬼の左腕が宙に舞う。
 肩口から勢いよく血が噴出す。
 斬鬼が体を半回転させる。
 辺りに血液が飛び散る。
 血飛沫が目くらましになる。
 北川と舞が一瞬斬鬼を見失う。
 斬鬼が跳躍する。
 北川の刀が空を切る。
 遅れて舞が斬鬼を追う。
 しかし、もう間に合わない。
 斬鬼が橋を渡る。
 それを横から走ってきた誰かが追う。
「こっちだ! あゆ!」
 誰かが叫ぶ。
 追う人影が二人になる。
 斬鬼が橋を渡って森へ消える。
 二人も橋を渡る。
「よせっ!」
 北川が叫んだ。
「よすんだっ! 月宮! 青梅!」
 北川の声は、目の前に広がる黒い森の中へと吸い込まれていった。



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