第十章 「狂剣」
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嫌な予感がした。 暗い江渡の森。 北川潤は足元も定かではない闇の中を疾走する。 月宮あゆと青梅敏晴が斬鬼を追って森に入ってからだいぶ経つ。隊員達に森を封鎖するよう指示を出していた分遅れたのだ。 今も森の外では隊長の川澄舞が指揮をとって出入り口を固めているはずだ。しかし、広い江渡の森を完全に封鎖するのは無理だと北川にはわかっていた。白道課の居住区として門を設け厳重に管理されている北部とは違い、南部はほとんどが人の手の入っていない自然林なので、どっからでも簡単に外に抜けられるのだ。 北川は斬鬼の追跡は半ば諦めていた。しかし、もっと重要な事があったので、北川はこの森の中に足を踏み入れた。 部下の安全――それが北川にとっての第一である。 「月宮！ 青梅！」 大声で部下の名を呼んだ。 しかし返答はない。 代わりに漂ってくるのは、重く纏わりつく死の臭いだけであった――。 北川は霊感に優れた人間ではなかった。むしろ、通常人よりも鈍いといえる。 凍京は妖しの都である。 妖気を感じられない人間には生き抜くことは難しく、ましてや妖術を使うものと戦うなど不可能に近い。 武術に長けたものが簡単な幻術に惑わされて命を落とすような世界、それが凍京なのだ。 しかし、北川はこの凍京の街で生き延びてきたし、凍京を守る部隊――虎王隊で副隊長をも務めていた。 何故か？ 理由は北川の持つ特殊な能力にあった。 その能力とは、死を嗅ぎ分ける力――直感的に死を感じる力である。 自分であろうが他人であろうが、誰かが死の危険にさらされている事を北川は感じることができるのだ。 それは霊感とはまた別の能力であった。危険を感じる力といってもいいかもしれない。物の怪による命の危険だろうが、交通事故であろうが、とにかく、そういうものが起こる臭いが北川にはわかるのだ。 だから北川はいつもその臭いに注意を払っていたし、それを回避することで幾つもの危機を生き延びてきた。 北川にとってはもっとも信頼できる感覚である。 その死の臭いが、今この江渡の森に濃密に漂っていた。 「ちっ！」 北川は舌打ちをした。 さっきより死の臭いが濃くなったのだ。 ぎりぎりの濃度である。 過去の経験上、これ以上臭いが強くなると誰かの命が消える。 この森の中で、死に近い位置にいるのは３人。 手負いの斬鬼。 それを追うあゆと青梅。 北川が見る限り、あゆと青梅は隊の中でもかなりの使い手である。二人とも最近特にめきめきと実力をつけてきて、あゆに至っては十組長と互角に渡り合える程度にまで腕をあげた。しかし、それでも斬鬼には敵わないだろう、というのが北川の評価であった。斬鬼は片手ではあるが、それでもあゆで互角、青梅だと斬られるといったところか。 「くそっ！」 北川に苛立ちが募る。 そうしてる間にも死の臭いは濃厚に漂ってくる。 北川は臭いを嗅ぎ分けながら、その発生源へと向かう。 森の中には様々な妖気が充満していた。優れた術者でも気を読むのが難しい状態である。だが、死の臭いを直に感じることのできる北川は、まっすぐに斬鬼のもとへと向かっていた。 青梅敏晴は息をのんだ。 目の前には片腕を失った一人の男。 人の形をしてはいるが、体から発する禍々しい妖気と目の奥に潜む狂気は、どうあっても人のものではない。 斬鬼――。 斬ることを目的として存在する闇のもの。 ――こいつに何人の人間が斬られてきたのだろうか？ 青梅は抜き身の刀を斬鬼に向けている。 斬鬼も片手で刀を構え、二人の動きを窺っていた。どうやら逃げるつもりはないらしい。 ――勝てるのか？ 青梅の心に不安が過ぎった。 先程、隊長と副隊長が同時に斬鬼に斬りかかった。にもかかわらず斬鬼は二人から逃げ延びたのである。 腕一本失ったとはいえ、普通にできる芸当ではない。 ――追いついたのはいいが、勝つどころか、生き残ることも難しいな。 青梅の額に冷や汗がにじんだ。 ――けど、もし俺が斬られても……。 青梅はちらりと横を見る。 そこには、一緒に斬鬼を追ってここまでやってきた月宮あゆの姿があった。 ――こいつだけは、無傷で逃がさないと。 青梅の隣では、あゆも同じように斬鬼に向かって刀を構えていた。 あゆと青梅は同時期に虎王隊に入隊した。研修を受けたのも同じ時期であり、その後そろって壬組に配属された。 壬組に入ってからもあゆと青梅は二人セットで行動することが多く、任務以外のときも二人は一緒にいることが多かった。 剣の腕ではあゆの方が上だった。 訓練のときなど青梅はよくあゆにコテンパにされた。あゆに負けるたびに、青梅は次こそはあゆに勝とうと熱心に練習に打ち込んだ。 女に負けたのが悔しかったからではない。 あゆより強くなって、あゆを守ろうと、そう思ったからである。 青梅の目には、あゆはどこか儚く見えた。 普段のあゆは底抜けに明るかった。しかし青梅には、あゆが無理して自分をつくっているように思えた。そうしていなければ自分が消えてしまう。そんな気配があゆにはあるような気がする。 何故なのか？ その理由は青梅にはわからない。しかし、青梅にはそれを詮索する気はなかったし、そもそも青梅にとってはそんなことはどうでも良い事であった。 ――守りたいから守る。 それがすべてであり、そこに理由はいらない。 自分はあゆの側にいてやり、あゆの事を守ってやればいい。 ただそれだけを思って、今まであゆと共に行動してきた。 そして今、青梅は己の命の絶対的な危険を感じながらも、心の中ではあゆを無事に生かす方法のみを必死になって考えていた。 「あゆ……」 青梅は横目でちらりとあゆを見た。 暗い森の中ではあゆの表情までを読み取ることはできない。しかし、あゆの体が小刻みに震えているのはわかった。 「あゆ」 もう一度あゆに声をかける。 「な…に……？」 あゆの声は、何かを抑えるかのように震えていた。 「俺が先に斬りかかる。だから、あゆ。おまえは――」 青梅の目がまっすぐ斬鬼を捉える。 「――その隙に逃げろっ！」 言うや否や、青梅が大地を蹴った。 「うおぉぉぉぉぉぉっ！」 青梅の咆哮が夜の森に響き渡る。 動作はある程度大げさな方が良い。その方が囮になる。 斬鬼が切っ先を青梅に向ける。 懇親の力を込めて、青梅が刀を振り降ろした。 斬鬼が素早く刀を振り上げる。 青梅の刃と斬鬼の刃が、鈍い金属音を立てながら激しくぶつかり合った。 叫び声が聞こえた。 森に緊張が走った。 力と力がぶつかる気配がした。 次の瞬間、何かが弾けた。 そのとき北川は誰かの死を悟った。 「ちくしょうっ！」 北川は走りながら叫んだ。 もうすぐ側まで来ているはずなのに。 北川はとれんばかりの勢いで腕を振って走る。 死の臭いは急激に膨張し、急速に収束していった。 森に再び静寂が訪れる。水をうったような静けさ。 誰かの命が失われ、そして危機が去った。 誰の命が――！ 北川は己の中に浮かび上がった疑問を、首を横に振って追い出そうとする。 それを考えるのは嫌だった。 だがその答えは、考えるまでもなく北川の前に突きつけられた。 死を感じてから１分も経たないうちに北川はそこに辿り着いた。 血の海だった。 大地は黒々と濡れていた。 人が上下二つに分かれていた。 一人の少女が座りながら泣いていた。 理解と悲しみと怒りが同時にやってきた。 いろいろなものが一辺に噴きあがってくる。 「くそぉぉぉぉっ！」 北川は近くの木を拳で殴った。 何回も何十回も、血が出てもなお殴り続けた。 それでも何も収まりはしなかった。 少女――あゆは、青梅の上半身にすがりつき、「ごめんね、ごめんね」と言いながら泣いていた。 斬鬼の姿はもうどこにもなかった。 翌朝、青梅の遺体は虎王隊によって回収された。 傷を負ったものも何人かいたが、亡くなったのは青梅だけであった。 青梅が運ばれる間、その傍らであゆはずっと泣いていた。 その場に居合わせたものは皆奥歯を噛み締めながら運ばれる青梅を見つめていた。 「泣いている暇はない……」 虎王隊隊長川澄舞がいった。 「私たちが立ち止まっていたら、被害者は増えるだけ……」 舞の脇には副隊長の北川潤もいた。二人とも表面上は冷静な顔をしていた。 「私たちは前進しなければならない。それこそが、この凍京を守るものの使命」 隊員たちは真剣な顔で舞の言葉に耳を傾ける。 「一日も早く悪鬼を捕らえ鉄槌を下す。それが私たちの責務。もうこれ以上の犠牲を出してはいけない。死んでいったものへの手向けとして、斬鬼の首級を高く捧げよ。平和を以ってして、殉死者たちの供物とせよ。さぁ、行って、みんな。私たちは帝都の守護者、虎王隊！ そのことを妖物たちに思い知らせてあげて！」 舞の言葉に隊員たちはいっせいに敬礼する。そして各々、自分のやるべきことを全うべく、凍京の街へと散っていった。 後には舞と北川とあゆだけが残された。 「潤――」 舞が北川に向かって言った。 「あなたは今日は、あゆの側についていてあげて……」 「はい……」 北川が返事をする。舞にいわれるまでもなく北川はそうするつもりであった。 「私は、もう行く……」 舞は一度だけあゆの方を振り返った。 「やっぱり、慣れない……。けど、慣れてはいけないことだから、これでいい……」 舞は目を閉じ、軽く黙祷してからその場を後にした。 「部下の前で泣けないのが、隊長の辛いところだ……」 北川は舞の背中を見えなくなるまで見つめ、それから視線をあゆに移した。 昨日からずっと、あゆは「ごめんね……」と言って泣いていた。 自分の事を責め続けながら、ひたすらに涙を零す少女。 小刻みに震える肩がとても小さかった。 そんなあゆを見て、こいつは武官には向いていないと、北川は心の中で思った。 （十一章へ） |