第十一章 「白道方術課」



「あと、三日」
 そう呟いて、白道方術課総長水瀬秋子はため息をついた。
 江渡の森にある白方神社。その社内にある小さな茶室に彼女はいる。
 時刻は昼。部屋には他に誰もいない。人がいないどころか、調度品すらほとんどない。あるものといえば、秋子の前にある小さなちゃぶ台と、その上でほんわかと湯気をたてている一杯のお茶だけである。
「この部屋もだいぶ片付いたわね」
 今更ながらにそんなことを思う。
 部屋にあった大方のものは、夜々木に建立した新しい社の方へと移されていた。
 白道課は引越し中なのである。
 今まで江渡の森で霊的安寧を保ってきた白道課は、その本拠地を夜々木に移すことになっていた。江渡の森には、白道課の代わりに青道仏術課がやってくることとなっている。二重端には既に青道課の寺院が完成していたし、青道課の大部分はもうそこに移ってきていた。
 あとは、正式な権限の移譲を終えれば、江渡の森は完全に青道課の本拠地となる。
 移譲式典は、三日後に行われることとなっていた。


 ――どうも不安でしょうがない。
 それが秋子の感想であった。
 そもそもこの権限の移譲は、秋子にとっては寝耳に水のことであったのだ。
 二十日程前に行った甚大村への妖怪討伐。それから凱旋したときに、いきなり今回の事を知らされた。どうやら討伐中に帝都議会の方で急に決定したらしい。白道課が凍京を留守にしているうちに、青道課が議会の方へ働きかけ、今回の譲渡を決めさせたようだった。
 白道課と青道課は仲が悪かった。どちらかというと、青道課が白道課を毛嫌いしているという方が正しい。
 恨みの理由はいろいろあったが、そのうちの一つに、白道課が江渡の森を本拠地にしているということがあった。
 江渡の森は凍京の中心に位置している。
 そこに本拠地を置くということは、凍京の霊的機構の中心に立つことと同意であると、青道課はそう信じているらしかった。その認識は、半分合っていて半分間違っている。
 江渡の森にはこの都ができたときから白道課がいた。そのことが青道課には気に食わなかったらしい。だから青道課は、白道課が遠征で留守の間にこれ幸いと江渡の森の統治権限を白道課から奪い取ってしまったのだ。
 さらに青道課は、白道課が遠征から帰ってくる前に各方面に働きかけ、権限の委譲を覆せないようにしてしまった。
 ――江渡を離れることになるなんて。
 秋子はまたため息をついた。
 別に、面子を潰されたとか、そういうことで気を病んでいるのではない。
 秋子が気にしているのは、青道課が江渡の森を守護することができるかということであった。
 白道課が江渡の森にいた理由は、ここが凍京の中心であったからだけではない。
 白道課は、江渡の森を守護するためにここにいたのだ。
 ――光も闇も大いなる力。
 ――力は人を惹きつける。
 ――だからこそ、凍京の街はここに生まれた。
 ――けれど、力が人を呼ぶように、人も力を呼び寄せるわ。
 ――今は眠っている、真の闇をも目覚めさせてしまう。
 ――もし闇が目覚めたら、もし闇が溢れたら、再びここに渾沌が訪れてしまう。
 ――だからこそ、人の営みを守るためにも、ここを守らなければならないのに。
 青道課とて無能ではない。だから善管注意義務さえきちんと果たしてくれれば何の問題もない。だがしかし、おそらく青道課は江渡の森を守るという意味を知らないのだ。そんな彼らが、果たして森を正しく守護することができるだろうか。
 ――無理もないわ。白道課の人間だって、知っているのは一握りだけなんだし。
 秋子は三度目のため息をつく。
 人というのはそんなに簡単に物事を忘れてしまうのであろうか。
 それとも、己の力を過信しているのであろうか。
 おそらく両方だろうと、秋子はそう思った。


 青道課は引渡しの日を三日後に指定してきた。
 三日後は新月である。
 ――月のなくなる夜に、譲渡の式典。
 秋子は額を押さえた。
 これが今最も秋子を悩ましていることであったのだ。
 ――月が消えるのはしょうがないとして、問題は斬鬼と真琴ちゃんね。
 秋子はそのやや複雑な問題を考える。
 昨日、虎王隊から斬鬼討伐の協力要請が来た。
「斬鬼を追うには、武力だけじゃもうどうにもならないんです。白道課の方術がどうしても必要なんです」
 協力を頼みに来た虎王隊の副隊長は、そう言って秋子に向かって頭を下げた。
 それに対し、秋子は一秒で「了承」と応えた。
 もともと白道課の方でも、二日前に保護した沢渡真琴との関連で、虎王隊に協力を頼もうと思っていたところだったのだ。
 沢渡真琴は、斬鬼に狙われているといって白道課に保護を求めてきた人物である。真琴は雪師団の団長美坂香里と面識があったらしく、香里が秋子のもとへと真琴を連れてきた。
 真琴は南方に住む妖狐の一族の生き残りであり、真琴の妖狐としての能力と強大な霊力を斬鬼は狙っていると、香里は秋子に説明した。
 秋子は快く真琴を迎え入れた。だが、真琴を斬鬼から守るといっても、もし力押しでこられた場合は、白道課の術官だけでは対応できないのは明白である。だから秋子は虎王隊に協力を求めようと思っていたのだ。
 そのことを副隊長に説明すると、彼は複雑な顔をした。
 どうやら彼も真琴と知り合いだったらしい。
 虎王隊の協力を得られたあと、秋子は状況を少し整理してみた。
 まず、巷には斬鬼とよばれる闇のものがいた。虎王隊からの情報によると、斬鬼は月が欠ければ欠けるほどその力を増すタイプの悪鬼である。
 そしてその斬鬼が狙っているという真琴は、白道課が保護していた。今は夜々木の方で美坂姉妹が付きっきりでガードしている。今日からは虎王隊からの増援もあるので、普段の真琴の安全については何ら問題ないであろう。
 だが問題は新月の日である。
 新月の日には、白道課のある程度の地位を持つ人間は、権限譲渡の式典に出席する為に、江渡の森にいなければならなかった。秋子はもちろんのこと、美坂姉妹もそれに含まれる。そのときに真琴一人だけを夜々木に置いておくわけにはいかない。結果、その日は真琴も江渡の森にいることになる。
 そして新月の日は、斬鬼の力が最も強くなる日でもあった。おそらく、斬鬼が真琴を狙うのもこの日であろう。
 譲渡の式典中にはどうやっても霊的な隙ができてしまう。また、虎王隊の守護も、式典の慌しさの中で一瞬甘くなる時があるだろう。それを斬鬼が見逃すはずがない。
 三日後、全てが江渡の森に集まるのである。
 新月。
 静まる力。
 高まる力。
 移譲。反発するもの。
 白道課。
 青道課。
 追われるもの。追うもの。さらに追うもの。
 沢渡真琴。
 斬鬼。
 虎王隊。
 これで、何も起きないはずがない。
 だからここのところ、秋子は一人で考え事をしているときは、ため息ばかりをついていた。


  *  *  *


 同時刻、同社内の別の部屋。
 そこでは二人の少女が向かい合って会話をしていた。
 一人は白道課月師団団長、水瀬名雪。水瀬秋子の一人娘である。
 そしてもう一人、お茶を飲みながら名雪と言葉を交わしているのは、白道課花師団団長、倉田佐祐理であった。
「お母さん、昨日からずっとため息ばかりついてるの。何か悩み事があるのかなあ……」
 名雪が手元に視線を落とす。
「そうですね。秋子さん、元気ないですね」
 佐祐理が名雪の顔を心配そうに覗き込んだ。
「佐祐理さん、何か心当たりない?」
 名雪が佐祐理に訊いた。それに対し佐祐理は、意外にも「あります」と答えた。
「心当たりがあるの?」
「はい。秋子さんの元気がない理由は、今度の式典にあると佐祐理は思います」
「あの、青道課の人たちと一緒にやるっていう行事?」
「はい。そうです」
 佐祐理が相槌を打つ。しかし名雪は首を横に振った。
「佐祐理さん、式典のことだったらお母さんそんなに悩まないと思うんだ。確かに式の準備とかは大変だけど、お母さんはそういうことを大変だって思う人じゃないし、式典が終わったあとは夜々木の方に行かなくちゃいけないけど、その問題ももうほとんど片付いてる。それに、お母さん、一昨日までは普通だったんだよ。もし式典の事に不安があるのなら、もっと前から悩みを抱えてるはずだよね」
 だからもっと他に理由があるんだよと言って、名雪はため息をついた。
「昨日、北川さんが来ましたよね」
 佐祐理が言った。
「え? 北川君? うん。来たよ。お母さんに会ってったけど……」
「たぶんそのとき、話を聞いたんですよ」
「何の?」
「式典の日に、斬鬼と戦う事についてです」
「えっ!?」
 名雪が驚きの声をあげた。
「これは舞から聞いた話なんですが……」
 佐祐理は声のトーンを落とす。
「どうやら、虎王隊の人たちが、式典の最中に例の斬鬼と対決するつもりらしいんです」
 佐祐理の言葉を聴いて、名雪はもう一度「えっ!?」と叫んだ。
「それって、どういうこと?」
 名雪が佐祐理に訊く。
「名雪さんは真琴さんのことは知ってますよね」
「うん。香里から聞いてる。そういえば、式典のときは真琴ちゃんもこっちに来ることになってるんだっけ」
「それなんですよ」
「それ? 真琴ちゃん?」
「はい。舞がいうには、式典の最中に真琴さんを狙って斬鬼がやってくるそうなんです」
「わっ! た、大変だよっ! みんな忙しいときに、そんな斬鬼さんみたいな人がきたら、誰が真琴ちゃんを守るのっ!」
「そうです。大変なんです。けど舞は、そのときこそチャンスだといってました」
「どうして?」
「斬鬼は必ず真琴さんのところに来るんです。来る時間も来る場所もわかっていれば、いくらでも対策を練ることができます」
「罠を張るの?」
「たぶん」
「そう――なんだ。そんな話があったんだ。私ぜんぜん知らなかったよ」
「佐祐理も今日の朝舞に聞くまで知りませんでした」
「佐祐理さんが知ったのも今日なの?」
「はい。虎王隊の中でもどうするのか決まってなかったみたいで、昨日徹夜で検討して、今日の明け方にやっと決まったみたいです。朝、舞が教えてくれました」
「舞さんと佐祐理さんはまだ一緒に暮らしてるんだっけ?」
「そうですよ。けどここのところ舞は、隊長のお仕事が忙しくて滅多に家に帰ってこなかったんです。今日の朝舞が家に帰ってきたのは本当に久しぶりなんです。ですから佐祐理も、今日舞から話を聞けたのは偶然なんですよ」
「お母さんは知ってるのかなぁ?」
「舞は、白道課には今日伝えるといってましたが、たぶん昨日、北川さんがこのことをある程度秋子さんにだけ伝えたんじゃないですか?」
「お母さんにだけ?」
「はい。こういうことは、こちらも早くからわかっていた方がいいですからね。けれど、正式に決まるまでは混乱を招くだけですから、すべてをみなさんに伝えるわけにはいきません。ですから、こんな話があると秋子さんにだけ教えておいたと、そんなところだと佐祐理は思うんです」
「そっか。そんな話を聞いちゃったら、お母さんもいろいろと思い悩むよね」
「はい。何しろ相手はあの斬鬼ですから……」
「舞さんや北川君が来てくれるんでしょ。それならきっと大丈夫だよ」
「けれど、舞も北川さんも、この前斬鬼に逃げられて以来、どこか元気がなくって……」
「それなら私たちが虎王隊の人たちをバックアップしてあげなきゃ。術と武がそろって、はじめて凍京を守ることができるって、お母さんいつもいってるもん」
「そうですね」
 佐祐理が頷く。
「ファイト、だよっ!」
 そう言って名雪はぎゅっと拳を握った。


  *  *  *


 その日の夜、虎王隊の隊長が白道課を訪れた。
 隊長――川澄舞は水瀬秋子に会い、三日後の事について説明し、その協力を白道課に要請した。
 秋子にとってそれは始めて聴く話であったが、ある程度予想のできていたことであったので、申し入れに対して一秒で「了承」と答えた。
 二人は会見を済ませた後、すぐさま部下を部屋に招集し、三日後に向けての方針を双方の情報を交換しながら語り合った。
 ここに斬鬼に対する白道課と虎王隊の共同戦線が発足したのである。
 会議は夜通し続き、話がまとまった頃にはすっかり夜が明けていた。
 陽光が扉の隙間から差し込んでいる。
 秋子は一晩中稼動させた重い頭をすっきりさせようと、雨戸を開いて外の空気を吸った。
 冷たい空気が脳をクリアにする。見上げると、太陽がいつものように江渡の森を明るく照らしていた。
 秋子は素足で中庭に下り立ち、眩しそうに太陽を見上げる。
 式典まではあと二日。
 願わくは、何も起こらないようにと、心からの願いを込めながら。


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